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老翁よ

 村上春樹の『1973年のピンボール』に、交換された配電盤を双子の姉妹とともに貯水池に葬りに行く「配電盤の葬式」という印象深いエピソードがあるが、我が家の炊飯ジャーにもそろそろ葬式の時が近づいているようだ。ここ数日、分量通りに水加減を調整しているにもかかわらず、芯の残った無残な硬い米が後に残されるという事例が立て続けに起こっている。その原因は、「こちら側」のミスではなく、「あちら側」の失調にある。炊飯ジャーはかつての勢力を失い、もはや米に必要かつ十分な熱量を届けることができないほどに老いてしまったのだ。悲しむべきかな、老翁よ。しかし、これが運命の等しく帰するところなのだ。

考えてみれば、兄が一人暮らしを始めるときに購入し、それを私が受け継いで使っているので、もうこの釜も十年近くの齢を経てきたことになる。葬送の句にカントの一節でも引用しつつ、どこかの貯水池でも見つけて手厚く葬ってやることにしようか、と思ったが、不法投棄になるのでやめにした。周りを見回すと、様々な家具や家電に年月の刻印が染み付いてきている。ディドロ効果には気をつけないといけない。

今夜の晩御飯


11/29

11/29 補遺

メニュー

卯の花バーグのライスバーガー

トマトと水菜のサラダ

えのきの味噌汁

我が手元に残された硬い米を何とか食せる代物にするために、薄く延ばして胡麻油で焼き、ハンバーガーのパンズの代用にしてみる。大量に残った卯の花を利用して拵えたハンバーグを挟んで、照り焼き風のソースを絡め、珍妙な形のライスバーガーにする。手間は掛かっても、どこかで聞いた「一粒一年」という言葉が耳に残り、米を無下にはできないのである。


鼻はギアナ高地のごとく

 昨今の薬はよく効く。昨日までの大瀑布状態とはうって変わって、今日はあまり鼻をかんだ記憶がない。が、眠い。

今夜の晩御飯


11/28

メニュー

鯖のマスタード焼き

卯の花

トマトとオクラのサラダ

胡麻豆腐の味噌汁

黒米入り御飯

鯖はあらかじめオーブンで火を通しておいてから、マスタード・チーズ・クリーム・ワイン・塩・胡椒・バルサミコ酢少々を混ぜたソースをのせて焼く。表面はこんがりと仕上げ、中身はふんわりとしたままに留めるのがポイント。鯖の臭味もなく美味しい。卯の花はひじきも加えて食物繊維を倍化させる。おからはその有用性に鑑み名称を変更すべきである。

摂食時無呼吸症候群

 睡眠時無呼吸症候群という恐ろしい症候群があるが、私は「摂食時無呼吸症候群」とでも言うべきものにここ数日悩まされている。

私は根治しがたい慢性のアレルギー性鼻炎持ちで、「鼻が完全に開通している」という感覚を物心ついてから味わったことがない。最近、その鼻炎の症状がとみに悪化し、酷い時には一分おきくらいでティッシュに手を伸ばしている。鼻腔は呼吸器官であることを忘れたかのように閉塞し、口はその反動で始終開きっぱなしである。

当然この症状は食事の間も続く。それゆえ、食べ物を咀嚼している間、私は深刻な無呼吸状態に陥るのである。悠長に咀嚼していることなどできない。素早く食物を噛み砕き、間隙を挟まず嚥下して胃に送り込まないと、苦しい窒息状態が待っているのである。スローフードも何もあったものではない。丹念に咀嚼することが、単に消化吸収を助けるというだけではなく、リズム運動を促すことでセロトニンの分泌を高めるという点でも奨励すべきことであるのは承知しているが、残念ながらその余裕はないのである。

今日ようやく鼻炎薬を購入したので、何とか危機の絶頂は脱することができるだろう。だが、これは根本的な治療とは程遠い。中学生の頃に三年間耳鼻科に通い続け、アレルギー注射を合計で数十本も打ってきたが、それでも根治しなかった。どこかのタイミングで再び根治に挑まなければ、いつか私の死因には「摂食時無呼吸症候群」という診断名がつくことになるだろう。

 昨夜の晩御飯。


11/26

メニュー

ピータン粥

蕪のアジアンサラダ

葉物の中華スープ

ピータン粥には白髪葱を醤油とラー油に浸しておいたものを添える。蕪は軽く塩漬けにし、水分を切ってから他の野菜と混ぜる。豚肉を胡麻油でカリカリに焼き、油ごとサラダの上に注ぐ。そして仕上げにナンプラーで塩気と香りを足す。できればゆっくりと味わいたいものである。

 最後に、ル・モンド・ディプロマティークの記事を紹介しておこう。今回は北朝鮮の核問題に関する二つの論考が掲載されているが、北朝鮮による核実験の動因をどう見るかという点で微妙な食い違いを示していて興味深い。分析を開陳する余裕はないが、政権交代以降、日本の再軍備化が、国内世論が感じている以上に、国際社会のなかで懸念をもって眺められているということは知っておくべきだろう。

「安部政権の発足」

http://www.diplo.jp/articles06/0611.html

「北朝鮮の核実験を中国から見ると」

http://www.diplo.jp/articles06/0611-4.html

日本の核兵器保持についての問題は、日本国内における米軍駐在の問題と絡み合っていてなかなか難しい。核兵器保持に反対の立場をとり、同時に国内に駐在する米軍基地の撤退を求める向きは多いし、私も可能な限りその立場を採りたい。しかし、これに対して、米国の傘の下を離れ、沖縄を始めとする国内の米軍基地を撤退させたいのであれば、日本は自律的な防衛手段を確保するために抑止力としての核兵器を持たなければならないという論がある。そうした論からすれば、核兵器保持に反対することと米軍駐在に反対することとは二律背反を抱えているということになる。この論が必然性なものであるか否かを吟味するためにも、核兵器をもつことの費用便益の分析を専門家たちが多角的な視点から行うことは必要だと思うが、なかなかそうした声は上がりにくいのが現状である。平和主義という希求すべき理念は硬く保持しつつも、その理念を現実の批判に晒して吟味し、議論によって鍛えていくことが肝要であるのは言うまでもない。そうした自己批判を伴わない理念は徐々に空洞化していくからである。

莢隠元の恐怖

 今日は午後に入りしなにある論点に躓いて、思考が立ち往生したまま二週間ぶりに大学へ向かう。博士課程の願書を取りに行くためだ。大学は学園祭が始まろうとしていたが、それを横目に足早にキャンパスを去る。帰りの電車のなかでも延々と堂々巡りを続け、もう今日は進まないかと思われたが、夕方を過ぎて茫漠とした思考が次第に形を成し始め、(大袈裟に言えば)「惑星が一列に並んでくれるように」論点が整序されていった。深夜から一気に論を展開し、書きかけの章に片をつけ今に至る。結果かなり煩雑な議論になったが、なかなか興味深い論点が出てきたように思う。客観的に見てもらわなければ自分でも評価できないわけだが。研究生活において、こうした「啓示が降りてくる」ような瞬間というのは最も知的興奮を誘うものだ。日々こうした興奮に包まれていたいものだなあ……。

 今日の晩御飯。

11/24

メニュー

マーボー茄子

ピータン胡麻豆腐

蕪の味噌汁

黒米入り御飯

昨日のブログで言及した食材屋にてピータンを購入していたので、胡麻豆腐を敷いて合わせて食す。葱ソースに隠れてわずかにしか見えないが、ピータンの下でちらりと灰色の顔を覗かせているのが胡麻豆腐である。ピータンは濃厚なので、胡麻豆腐のさっぱりした口当たりと絶妙にマッチする。

自分でマーボー茄子に使っておいて何だが、どうもサヤエンドウの歯ごたえが好きになれない。「キュッキュッ」というあの音が奥歯の上に聞こえると、にわかに背筋が寒くなる。アルミホイルを噛んだときの寒気と似たものがある。味は嫌いではないのだが、どうしたものか。前歯のみで噛めば大丈夫だが、それでは変なげっ歯類みたいではないか。

オイルサーディンのある風景

オイルサーディン

近所に新しくできた業務用を中心とした食材屋にて、低価格のオイルサーディン缶を発見。トマトコーポレーションより。これまでもあけぼのブランドのオイルサーディン缶(別の店で同価格帯にて販売している)を常備し、色々な料理に使ってきたが、漬けるための油に紅花油を使用しているため、味が少々上品にまとまっていて物足りなさも感じていた。今日購入したのは大豆油を使用したものであり、私のなかの「プロトタイプ的オイルサーディン」に近い味だった。あけぼのブランドは缶そのものに安っぽいデザインが施されていて、洋酒の肴にする時など情景的に馴染まないものだったが、今回の缶詰はその点でも合格である。オイルサーディン缶はやはり四角い無骨な真鍮色に限る。同社では百円のアンチョビ缶も販売しているらしいので、どこかで発見して是非とも購入したい。

早速、オイルサーディンを無心に潰して半ペースト状にし、ドレッシングとマヨネーズを加え、サラダを和える。

今夜の晩御飯。

11/23

白菜のシチュー

セロリと水菜のサラダ

野菜たっぷりのシチューは横着して御飯とともに頂く。

クレーの学校

クレー

レントラックジャパン
パウル・クレー

同居人が借りてきたDVDESCOLA パウル・クレー 天使の沈黙」を観る。純粋に教養的な観点から作られた伝記映画だが、その分余計な装飾が少なく、青年期から死に至るまでの時系列に沿い、芸術家クレーの創造における豊かさの秘密が忠実に紐解かれ、丁寧に綴られている。

 バウハウスでの講義の様子を紹介した箇所が面白い。クレーは問う。「単純な円と一本の直線からどのような形が創造できるか」、と。クレーは「ふたつの形がただ組み合わされるだけでは何の意味もない。それらの間に有機的な摩擦が生じなければならない」と考え、円と線を互いに干渉しあう様々な運動的状況のなかに置く。そして、それらが具体的な物体間において互いに歪形し合うその構造を、緻密に、かつ体系的に記述してゆく。クレーは、そのようにして得られた複数の構造を再び組み合わせ、次第に一個の図形へと整形してゆく。彼は、このようにして造形された記号図形を、以後、様々な観念の象徴として自身の絵画のなかに散りばめてゆく。もちろん、そうした絵画のなかへの記号の分娩それ自体も、他の諸記号との有機的な共振関係のなかにある。そして、そのなかで生じる摩擦は次第に高まり、徐々に一個の生命記号として自律化してゆく。彼の絵画のなかに現れる様々な記号的形象のすべては、こうした形態学的な運動によってその肉体を与えられ、互いに溶け合いつつひとつの生命をなしているのである。クレーの作品がどれも不思議な生命感に溢れているのは、それがこうした生命の誕生にも似た形態学的運動を自ら継承しているからである。

 クレーは、幾度も繰り返し生成の本質へと立ち返り、そこから出発する原理的な思考によって、自らの作品の展開を導いていった画家であり、しかもその歩みは決して同じ川に足を浸すことのない、その都度新たなものだった。私には哲学の傍らで研究してみたいと夢想している芸術家が何人かいるが、クレーもその一人である。特に、彼の創作ノートはいつか必ず紐解いてみたい。

素晴らしき哉職人芸

お気に入りの珈琲豆店から、数日前に注文しておいた素晴らしい香りの豆たちが届いた。東京に自家焙煎珈琲豆店は数多くあれ、この“Cafe des Arts Pico”ほど「良い仕事」をする店は稀だろう。できれば常にここの豆で淹れた珈琲を飲んでいたいものである。だが、如何せん店が遠く、なかなか通うことができない(普段は大学帰りに寄れる神保町の喫茶店「神田伯剌西爾」で購入している。ここの豆もなかなか美味しい)。仕方がないので思い切って通販にした。豆はたとえ冷凍保存していても鮮度が落ちるので、できれば少量ずつ頻繁に購入するのがよいが、送料が無料になるので大量購入。この珈琲たちをお供に書き続けます(中弛みしつつあるので引き締めねば)。

カフェ・デザール・ピコ http://www.cafe-pico.com/

ピコ

今夜の晩御飯。

11/22

鰆の西京漬け

里芋の煮物

わさび菜の梅ドレッシング

わかめとねぎの味噌汁

黒米入り御飯

今夜は素朴な和食。里芋の煮物は、煮込み後に一度冷まして「ソレー効果(Soret effect)」で味を染み込ませると良い。


暴君の悲劇

我がマンションの一階駐車場部分には、大家さんに養われながらのらりくらりと暮らしている野良猫たちが数匹出入りしている。そのなかのボス的存在であるコタツという名の猫が、最近日に日に肥えていっている。その過剰な肥えっぷりは目に余るほどだ。

ここに引っ越してきた時分にはまだすらりとしたしなやかな体躯をしていたのだが、いつの間にかウィスキー樽のようなデブ猫になってしまった。思うに、餌用の皿に常にキャットフードがたっぷりと盛られているのがいけないようだ。実家でも、同じような状態に置かれた猫は例外なく肥えていった。まだ幼いうちは問題ないが、成猫に達してしまうともう駄目だ。それまで成長に回されていた栄養分が一気に脂肪へと蓄積され、数ヶ月でもはや元の体躯は見る影もなくなってしまう。差し迫った危険もなく、狩猟を行う労苦もなく、運動への欲求もなく、猫は目の前に置かれた餌をさして空腹ではないにも関わらず繰り返し延々と食べ続ける。

これは猫の側の問題ではなく、ひとえに餌を与える人間の側の問題である。ペットに過剰な愛情を注ぐ人たちの多くは、「孫」に接するような気持ちでペットに接するのだろう。そして、孫と祖父母の関係が概してそうであるように、そこにある態度は、父母のような教育的態度を欠いた、「溺愛」に近いものとなる(祖父母が直接的な養育権を担っている家庭の場合には、概して祖父母のふるまいは父母に近くなる。祖父母の溺愛が許されるのは、父母が子どもの養育権を担い、祖父母の愛情を抑制している場合が多いからである。近年は父母でも教育的態度を欠いている場合が多いが)。餌の量も、猫の体型と運動量に合わせて調整し、時には厳しい態度で餌をねだるその猫なで声をはねのける必要があるのだが、愛情はしばしば過剰な物質的投資となって注がれてしまうのだ。最近のペットブームの中で、ペットに注がれる愛情にいささかグロテスクな偏向を見てしまうのは私だけではあるまい。

もっとも、うちの大家さんがこうした偏向した愛情を注いでいるというわけでは必ずしもない。勝手気ままに生息している野良猫たちに、それぞれに合わせて均等に餌を分配するというのも無理な話なので、大家さんが餌皿を常に一杯にしておくことも無理からぬことだとは思う。しかし、このままではコタツの健康上明らかに問題がある。競合する別の猫が現われ、コタツと餌を取り合ってくれればいいが、現在の王位独占状態が続くとすると、生活習慣病に罹ってしまうのも遠い先のことではあるまい。心配である。

コタツ

コタツ2

コタツ近影。

さて、ご好評につき、今夜も晩御飯を。

11/20

メニュー

鯖の竜田揚げ

野菜の揚げ浸し(茄子・オクラ・舞茸)

わさび菜の和風ドレッシング

ねぎとわかめの味噌汁

黒米入り御飯

「わさび菜」なるものを初めて買ってみたが、香味が高く、苦味も程よく、醤油ベースのドレッシングによく合った。商店街の八百屋で百円にて購入。安い。鯖の竜田揚げは前夜から仕込む。毛抜きで骨を抜いて、醤油・酒・生姜を合わせた汁に漬ける。揚げ物ついでに野菜の揚げ浸しも作る。茄子がつやつやして美味。


ウィッシュリスト活用術

アマゾンにウィッシュリスト機能というものがある。これは、他人に自分の欲しい商品を公開し、誕生日プレゼントなどに送ってもらうという場面を想定して作られたようだ。確かに、この機能を活用すれば、確実に自分の欲する商品を送ってもらえるという点で、プレゼントの「不発」を防止する役には立つだろう。

だが、こんなリストから選択した商品を贈られて、本当に嬉しいのだろうか。これは、「プレゼントを贈る」という行為に付随する楽しみの大部分を削ぎ落としてしまう。贈る側と贈られる側との品物選択における「駆け引き」(誕生日の前にそれとなく当人の好みを聞き出す等々)や、両者がもつ「期待」(贈られる側が喜んでくれるか、贈る側が何を選んでくれたのか)における二重の「未知性」を、それは縮減させてしまう。プレゼントが贈られる側の意に適ったものである場合の喜びは、自分の欲しい商品が手に入ったということよりも、贈り主が自分に注いでくれた「観察眼」への賛美を通して(「私がこれを欲しかったこと、どうして分かったの!」)得られる。こうしたプレゼントの贈呈におけるドマラツルギーを介してこそ、お互いの信頼性は高まることになるのだが、ウィッシュリストというコンセプトにはこうした要素が存在しない。

ウィッシュリストが実際にどの程度活用されているのかは知らないが、少々辛辣な物言いをすれば、これを活用してプレゼントを贈ることと、直接現金を贈ることとはそれほどの違いがないように思う。

 このリストが効果を発揮するのはより「即物的な」人間関係にある人同士の間でプレゼントを贈呈する場合であろうが、少なくとも友人間や恋人間においてこのリストを活用するのは対人関係形成上プラスには働かないように思う。予想されるコンフリクトの可能性を縮減させ、それを回避しつつ人間関係を形成しようとすることは、互いの親密性を高めるための助けとはならない。コンフリクトから逃げ回っている人間との間に信頼性など築くことはできないというのは当然のことだろう。不確定性の主要な源泉である他者と、利害関係を越えた友人や恋人として付き合うということは、その不確定性を逃げずに受け止めるということだから。

(註:別にアマゾンにうらみがある訳ではなく、疲れたのでちょっと小言を書きたかっただけである)。

私の場合はこのリストを違うやり方で活用している。私には、新品で買う気はないが、ユーズドである程度値段が安くなるなら買いたいという商品が多々ある。現在、その商品がアマゾン内にユーズドで出回ってはいないとする。その場合、私はその商品をウィッシュリストに放り込んでおく。そして、時々ウィッシュリストを回覧し、ユーズド商品が新たに登録されていないかをチェックし、それが自分の財布の許す金額以下であれば購入を検討する。このようにすると、ユーズド商品のチェックを一々検索せずに行うことができる。私のように欲しい書籍が大量に存在する者にとって、ウィッシュリストをこのように使用することは無駄な骨折りを省くなかなか便利な方法なのである。

 もちろん、アマゾンにはユーズド商品の予約機能もあるが、これの欠点は、一度登録すると、希望する商品が入荷したときに自動的に注文が確定してしまう点だ。入荷時における自分の経済状況を加味して商品購入を決定したい場合には、この注文確定の前にもうワンクッション選択プロセスが欲しいのである。また、欲しい商品間に優先順位がある場合にも、この選択プロセスにおけるワンクッションは必要である。

このようなリスト機能、「日本の古本屋」(http://www.kosho.jp/ )にも欲しい。

 さて、今日の晩御飯。

11/19

メニュー

ペンネ 鰯のトマトソース

焼きソーセージ マスタード添え

コンソメスープ

トマトの胡麻マヨサラダ


夢十夜

漱石先生の幻想的な傑作短編小説集「夢十夜」の映画化が進んでおります。新春封切りを前に、ようやく公式サイトが本格オープンしたとのメルマガが届いたので、ここに紹介しておきます。

http://www.yume-juya.jp/

サイトデザインはセンスの欠片も感じさせませんが、各夜を現在の日本映画界を担う諸氏が監督する本作品。個人的には監督・西川美和、出演・ピエール瀧&緒川たまきの第九夜に期待しています。修士論文を無事に仕上げて、心安い気持ちで鑑賞したい。残念ながら北海道での上映はないようです。

ちなみに、原作は青空文庫で読むことができます。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/799_14972.html

未読の方は是非。おすすめです。

修論執筆もいよいよ切迫してきたので(難所ばかりでなかなか進まない)、日がな一日自宅に篭って蟄居生活を送っております。もはや生活上の楽しみが夕飯の支度くらいでしか得られなくなってきました。折角なので我が手料理の写真を載せ、自己の慰みにしたいと思います。

11/17

今晩のメニューは

はまちの西京漬け

中華風野菜炒め

トマトの薄切りペッパークリームチーズ添え

黒米入り御飯

えのきとわかめの味噌汁