暴君の悲劇 | autochromatics differencia

暴君の悲劇

我がマンションの一階駐車場部分には、大家さんに養われながらのらりくらりと暮らしている野良猫たちが数匹出入りしている。そのなかのボス的存在であるコタツという名の猫が、最近日に日に肥えていっている。その過剰な肥えっぷりは目に余るほどだ。

ここに引っ越してきた時分にはまだすらりとしたしなやかな体躯をしていたのだが、いつの間にかウィスキー樽のようなデブ猫になってしまった。思うに、餌用の皿に常にキャットフードがたっぷりと盛られているのがいけないようだ。実家でも、同じような状態に置かれた猫は例外なく肥えていった。まだ幼いうちは問題ないが、成猫に達してしまうともう駄目だ。それまで成長に回されていた栄養分が一気に脂肪へと蓄積され、数ヶ月でもはや元の体躯は見る影もなくなってしまう。差し迫った危険もなく、狩猟を行う労苦もなく、運動への欲求もなく、猫は目の前に置かれた餌をさして空腹ではないにも関わらず繰り返し延々と食べ続ける。

これは猫の側の問題ではなく、ひとえに餌を与える人間の側の問題である。ペットに過剰な愛情を注ぐ人たちの多くは、「孫」に接するような気持ちでペットに接するのだろう。そして、孫と祖父母の関係が概してそうであるように、そこにある態度は、父母のような教育的態度を欠いた、「溺愛」に近いものとなる(祖父母が直接的な養育権を担っている家庭の場合には、概して祖父母のふるまいは父母に近くなる。祖父母の溺愛が許されるのは、父母が子どもの養育権を担い、祖父母の愛情を抑制している場合が多いからである。近年は父母でも教育的態度を欠いている場合が多いが)。餌の量も、猫の体型と運動量に合わせて調整し、時には厳しい態度で餌をねだるその猫なで声をはねのける必要があるのだが、愛情はしばしば過剰な物質的投資となって注がれてしまうのだ。最近のペットブームの中で、ペットに注がれる愛情にいささかグロテスクな偏向を見てしまうのは私だけではあるまい。

もっとも、うちの大家さんがこうした偏向した愛情を注いでいるというわけでは必ずしもない。勝手気ままに生息している野良猫たちに、それぞれに合わせて均等に餌を分配するというのも無理な話なので、大家さんが餌皿を常に一杯にしておくことも無理からぬことだとは思う。しかし、このままではコタツの健康上明らかに問題がある。競合する別の猫が現われ、コタツと餌を取り合ってくれればいいが、現在の王位独占状態が続くとすると、生活習慣病に罹ってしまうのも遠い先のことではあるまい。心配である。

コタツ

コタツ2

コタツ近影。

さて、ご好評につき、今夜も晩御飯を。

11/20

メニュー

鯖の竜田揚げ

野菜の揚げ浸し(茄子・オクラ・舞茸)

わさび菜の和風ドレッシング

ねぎとわかめの味噌汁

黒米入り御飯

「わさび菜」なるものを初めて買ってみたが、香味が高く、苦味も程よく、醤油ベースのドレッシングによく合った。商店街の八百屋で百円にて購入。安い。鯖の竜田揚げは前夜から仕込む。毛抜きで骨を抜いて、醤油・酒・生姜を合わせた汁に漬ける。揚げ物ついでに野菜の揚げ浸しも作る。茄子がつやつやして美味。