歯痒い思いに苛まれ
進学用の願書を提出するため大学へ行く(自分が住んでいる区から外へ出たのは何週間ぶりだろうか)。ついでに研究棟の掲示ポスターを眺めていると、修士論文の提出期限とちょうど前後重なるように、世界の最先端で活躍されている認知心理学者の下條信輔さんが三日間講義をしに来て下さるという情報が! しかし、事前登録制で、開催される三日間とも出席可能な者を優先するという但し書き。「三日分の登録だけ済ませて、黙って一日だけ出よう」という悪魔の囁きが聞こえる……。この論文執筆中には、先ごろサントリー学芸賞を受賞された中島秀人さんもシンポジウムで来ていらしたり、何とも歯がゆい思いを味わわされている。
下條さんの講義内容は以下の通り。
下條信輔(カリフォルニア工科大学教授)
行為、意志、意識―主観経験の神経科学
2007年1月16日(火)
第一回13:00~14:30 主観経験は特権的か―イエス&ノー
第二回15:30~17:00 主観的意識体験の時間的構造
1月18日(木)
第三回13:00~14:30 自発的な運動の神経学的メカニズム
第四回15:30~17:00 主観的体験の直接性・無謬性という錯誤
1月19日(金)
第五回14:00~17:00 真正のイリュージョンとしての自由意志
何とも面白そうだが、18日が締め切りなので最終日しか出られない。
最近アップしていなかった最近の晩御飯をまとめて。
メニュー
・ サバーグ(鯖のハンバーグ)
・ ポテトサラダのクレソン添え
・ 黒米入り御飯
メニュー
・ 里芋と小松菜の煮物
・ 瀕死のクレソンサラダ
・ 小松菜の味噌汁
・ 黒米入り御飯
メニュー
・ おからシチューのグラタン
・ 鮭のムニエル
・ 黒米入り御飯
メニュー
・ ブリとイナダの刺身 出世コース風
・ リンゴとミニトマトのサラダ
・ しじみの味噌汁
・ 黒米入り御飯
Waterfall Illusion
論文でとりあげている「運動残効」という錯覚の解釈で数日前から悩んでいる(一応の結論はすでに書き終わりましたが)。これを見ている友人の幾人かに、いずれこの錯覚を体験した感想を求めるかもしれないので、その時には協力して下さると有難い(もちろん、そういう非公式のデータを論文にそのまま使うことはしません。ちょっとした参考にさせて頂きたいというだけです)。この錯覚を体験できるサイトは以下。
「錯視の広場」 これはいわゆる滝の錯視。
http://psywww.human.metro-u.ac.jp/sakusi/motion/mae/index.html
「運動残効による傾き誘導」 次のサイトはQuickTimeが必要です。
http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/basics/visual/nishida/WM.html
この錯視の解釈に関する問題は、「知覚が矛盾した内容を含むという帰結を、この錯覚経験が与えるか否か」です。この錯覚は、知覚対象が「運動している、と同時に、静止している」という矛盾した印象を体験者に与えると解釈している論者がいるのですが、最近のデータではこれに対する否定的な実験結果が出ています。自分でも何回も体験しましたが、私が受けた印象と同じようなものを報告している人は見当たりませんでした。なので、それが他の人にも妥当するかどうかを伺いたいのです。
昨夜の晩御飯。
メニュー
・ ロールキャベツ
・ クレソンとアボカドのサラダ
・ 黒米入り御飯
・ カシス・ジンジャー
普段は私が作っているのですが、昨夜は休日(大学院生の私に休日はありませんが)ということで全面的に同居人が作ってくれました。美味しかったですよ。カクテルは私が担当。クレーム・ド・カシスとラムを沈めて、上からジンジャエールを注ぐだけ。
憂色暮色
「改正」教育基本法があっさりと成立してしまった(防衛庁の「省への昇格も)。改正案の中身もさることながら、その立法過程にも大きな禍根が残る採決だった。現在の与党が有している議席は郵政民営化を争点とした前回の総選挙によって得られたものなのだから、そこにおいて争点としなかったこれらの重要法案を国会での審議にかけるならば、その前に改めて解散総選挙をやって国民の信義を問うべきであるはずだ。
今夜のNHKのニュースに出演していた伊吹文科相の発言を聞いていると、どこかで幾人かの論者が挙げていた「今回の法改正の隠れた狙いは、教育における地方分権化の流れのなかに国家主導の指導体制を織り込んで伸張させてゆくための基盤を整備するという点にある」という指摘も頷けてくる気がする。伊吹文科相は、教育の基本的な骨格は「特定のイデオロギーをもった知事」に任せるべきではなく、「国民の選挙によって民主的に選出された国会において決定すべき」と語る(引用は記憶に頼っているため正確ではないので注意)。
この発言は二重の意味で問題である。第一に、地方首長である知事も都道府県民による選挙に基づいて民主的に選出されているのであり、その地位を「偏向したイデオロギーをもっている」という一言によって無視できるはずがない。こうした乱暴な発言も、最近の地方行政における談合問題で知事に対する一般的な不信感が増していることを後ろ盾とすると、視聴者の側にそれほど違和感なく受け止められてしまう恐れがある。
第二に、知事に「特定のイデオロギーをもっている」というレッテルを帰し、国会議員の選出過程における民主制をそれと対照的に強調することで、地方に対して国の方が「偏向なく」、「中立的」であるという前提を無害化しようとしているように聞こえる。だが、地方に対して国の方が行政上の不党不偏性が高いという前提には大した根拠は認められない。行政上の単位において県と国という規模の差があるということを根拠として挙げるかもしれないが(つまり、国会議員の方がより多くの選挙民に選ばれている)、現在の小選挙区制では、むしろ、ある特定の議員の選出に際して直接に投票権をもつ選挙民の数は知事選の場合よりも少ないため、この論は成り立たない。
それほど詳しく追っているわけではないが、ここに例示したような細かいレトリック上の操作が、至るところで様々な論者によって行われ、徐々に争点を曖昧化しながら今回の審議が進んできたという印象がある。教育問題は全般に渡ってもっと突っ込んで調べていきたいが、さすがに締め切り一ヶ月前のこの時期にあまり時間は裂けない。いずれにせよ、憲法の次に重要な教育基本法がこうも容易く「改正」されてしまうとは、非常に憂鬱だ。
http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/edu0604.html
(ここで現行法と改正案を比較しながら読むことができます)
その他にも調べれば現行法と改正法との比較検討を行ったサイトはごまんと出てきます。
最後に笑いを。あるジャーナリストが紹介していた、「劇団ザ・ニュースペーパー( http://www.dop.co.jp/
)」の一員による安倍首相の傑作物まね映像。
http://www.youtube.com/watch?v=9bwnCs4u6FU&mode=related&search
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最終節へ
長い道程を経て修論も最終章最終節に至る。ここが一番の難所なので気が重い。偏頭痛のような文章をお書きになるクリストファー・ピーコック先生が登場するからだ。だが、あともう一息だ。
今夜の晩御飯
メニュー
・ ペンネ・ボロネーゼ
・ 鰆のチーズクリームソース
・ ミニトマトとわさび菜のサラダ
・ ガーリックフランス
冬なのに鰆とは我ながら旬を無視した食材選択だが、グリルで柔らかく焼いて特製のチーズクリームソースをかけると、白身の淡白な味わいにチーズの風味がマッチして非常に美味しい。ソースは、適量の水にコンソメ、バター、ワイン、クリームチーズ、パルメジャーノ・レジャーノ、バジル、胡椒、塩、牛乳を入れ、少し煮立てて作る。油断すると塩分が濃くなるので適度に加減する。チーズやハーブの種類を増やしたり変えたりしても面白い。ボロネーゼは安く買ったAnnaMammaの瓶詰めを使う。
海浜生物
久しぶりに素敵な変態芸術家さんを発見しました。以前「世界まる見え」で紹介されたようなのでご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが。
このテオ・ヤンセン(Theo Jansen)氏は、プラチューブによって構成され、風を栄養源として活動し、オランダの砂浜を徘徊する「人工生命体」を次々と生み出しています。氏は、いずれそれらの人工生命体たちを、プラチューブを遺伝子コードの単位として、自律的に遺伝交配して進化していくところまで実際の生命体に近付けたいと語られています。その法外な夢の実行性はともかくとして、何よりもこのプロジェクトがもつ物語性が素晴らしい。そして、生み出されたこの人工生命体たちの幾何学的な造形美と機能美。少なくとも、この人工生命体たちは「複雑にして不規則な高次の秩序」を具現しており、そこがこの人工物にわれわれが「生命の息吹」を感じとってしまう所以をなしているようです。
Youtubeで調べれば幾つかこの生命体が実際に活動している動画も出てくるので、是非観てみて下さい。それにしても、実際の生命体に近付けるには、少なくとも摂取した栄養素を身体の構成分へと合成する仕組みが必要なはずですが、氏はこれをどのように解決するお考えなのでしょうか。実に興味深い。
テオ・ヤンセン氏のHP
日本語の紹介ページ
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/REPORT/holland_s/07/index.html
今夜の晩御飯
メニュー
・ トマト畑のチューリップ
・ 手羽先入りキムチスープ(残り物+α)
・ 黒米入り御飯
札幌時代、近所に小さな店構えの定食屋さんがあったのですが、私を含め友人たちはその店の暖かい雰囲気が好きで、足繁く通っていました。その店で、日替わり定食として「鶏肉のチューリップフライ」が出てくることがありました。私はそれが好物で、メニューにあるといつも決まってそれを注文していました。先日たまたま鶏肉のチューリップを使った料理を目にし、懐かしさも手伝って作ってみました。手羽中を開いてチューリップにし、塩胡椒を振ったあと片栗粉をまぶしてオリーブオイルで焼き、いったん取り出して他の野菜を炒め、カットトマト缶を入れてしばらく煮ます。そして、ローリエ、バジル、チリペッパーを入れて香りを付け、ヨーグルトも加えて酸味を足します。チューリップにするのにコツが要りますが、馴れれば手早く開けます。その過程で手羽先が余るので、昨日の残りのスープに入れて、キムチスープにしてみました。
孔子様も仰るように
「朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや」
昨夜は札幌からの旧友を迎え、久方ぶりに深夜まで、カティー・サーク卿を立会人に飲み耽る。建築から大脳を経て教育まで、種々雑多な話題に華が咲く。伊藤豊雄を賞賛し、安藤忠雄を罵倒する。
今夜の晩御飯。
メニュー
・ キムチモツ鍋
・ 黒米入りご飯
今夜は同居人が忘年会で外食なので、同居人の苦手な臓物系の鍋にする。美味しいのにね。モツをあらかじめ酒・生姜・塩を入れたお湯で下茹でし、余計な臭みをとる。鍋に唐辛子とニンニク、生姜、酒を入れ、モツと残り物の野菜を適当に放り込み、しばらく煮たのち、最後にニラを投入する。基本的な味付けはキムチ鍋の素だが、隠し味に味噌を入れ、コク深い味わいを醸す。
不買運動について
『ダーウィンの悪夢』という映画に触れて、この映画に対する反応として不買運動を行うことは事態を悪化させるだけだと書きましたが、その理由は以下の通りです。
まず、不買運動はしばしば絨毯爆撃化します。つまり、不買運動はある特定の企業なり国家なりの意思決定部門に対する抗議として行われるにも関わらず、実際にそれによって損害を被るのは、そうした意思決定部門の当事者だけではありません。例えば現場の生産に携わる労働者、製品の輸送に携わる業者、商品を販売する小売業者、等々、無数の人々がその影響を受けることになります。もちろん、ある企業なり国家なりが不正を働いているのであれば、その不正を正すことに企業の構成員や国民が一定の責を負っているのは確かであり、不買運動はそうした責務の自覚化を促すための効果も有しています。しかし、特に民主的でない企業や国家の場合、構成員は意思決定機関に比べて圧倒的に弱い立場に置かれているのが普通です。それゆえ、責務を自覚したとしても、その責務を果たすための行動に移ることが選択肢として現実性を欠く場合が往々にして存在します。そうした場合、抗議の意志を不買運動によって表明するのではなく、別のより現実的な方法を考え抜かなければなりません。
例えば今回の場合、ナイルパーチの購入や輸入を停止する行動を行うことによって最も損害を被るのはおそらく現場の漁師の方々です。そして、アフリカの貧困状況を考えれば、そうした漁師の方々には他の現金収入の道がそれほど多く残されているとも思えません。つまり、漁師の方々は自らの食い扶持を稼ぐためにナイルパーチの輸出に依存せざるをえないと想像されます。だとすれば、単純な不買運動は当事者の中でも弱い立場に置かれている人々に集中的な損害を与える可能性があります。そのため、代替的な現金収入の道を準備することへのサポートなしに不買運動を行うことは、逆に非人道的な行為へと結びつく危険性があります。
もちろん、不買運動は消費者が有する権利であり、また自らが不買運動を行う理由を他者へと開示し、他者の判断に影響を与えることも、それが嘘を喧伝する内容でない限り合法です。しかし、不買運動を行うときにその波及効果の及ぶ範囲に対する自覚をもたなければ、正義を行う意志が結果としての不正義へと陥ってしまうこともありえます。
不買運動は消費者と生産者の非対称性に基づいた抗議行動であり、多くの場合、比較的実行しやすいものです。例えば、日本がナイルパーチの輸入を停止したとしても、それで日本の消費者たちが甚大な被害を受けるわけではありません。そこには他の選択肢が無数に存在しているからです。アメリカ産牛肉の輸入停止措置を見てもこれは明らかです。アメリカ産牛肉を扱う業者はかなりの影響を被ったでしょうが、一部愛好家以外の消費者は特に痛痒を感じなかったはずです。しかし、生産側は他の代替的な商品への切り替えを行うことが不可能な場合があり、そうした場合、生産者の生活は困窮せざるをえません。このように、不買運動はしばしば消費者自身を安全な場所に置いたまま、生産者側に決定的なダメージを与えるという構図になりがちです(公民権運動の時のバス・ボイコット運動のように例外はありますが)。
こうした不買運動の一種の「気軽さ」のゆえに、その運動は抗議の意思を伝える簡易な手段として選択され、運動を行う者の予想していなかった影響を与えてしまう結果になりかねません。ニュースにはすでに映画への反応として欧州でボイコット運動が起こったと書いてありますが、その運動を行った消費者たちがきちんと問題の構図を追及・把握した上で抗議行動を行ったのかどうか懸念されます。おそらく、自らの直面するジレンマに対する回避行動として選択されているにすぎないと思います。
ここまで書いて、映画の公式サイトを観てみたら、監督へのインタビューでボイコット運動について言及されていました。監督はこうした問題を自覚しつつ作品を撮られたようです。
いずれにせよ、『ダーウィンの悪夢』、実際に観てみようと思います。
初マジックスパイス
タンザニア大使が抗議!「ダーウィンの悪夢」アフリカのイメージ壊す
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061206-00000055-sph-ent
私も見たいなと思っていた、グローバリゼーションのもたらす弊害を追跡した内容のドキュメンタリー映画ですが、当事国の高官から経済への悪影響を懸念する声が上がっているようです。内容を把握していないので何とも言えないのですが、おそらくこの声を当事者全体の声と受け取るわけにはいかないでしょう。しかし確かに、この映画を見て不買運動に走るのは短絡的な反応であり、事態を悪化させるだけだと思います。難しい問題です。
昨夜の晩御飯
メニュー
・ 鯖の塩焼き
・ ニラ玉
・ 胡麻豆腐サラダ
・ 蕪の味噌汁
・ 黒米入り御飯
今日の昼はオイルサーディン丼を作ってみた。醤油との相性が抜群。
同居人が札幌スープカレーの元祖、ご存知マジックスパイスのレトルトを買ってきたので食す。思えば、マジスパには札幌在住中一回も行けなかったんだな。
今夜の晩御飯。
メニュー
・ スープカレー
・ ミニトマトサラダ
アンチョビのある風景
オイルサーディンについて書いたときに言及したアンチョビ缶を数日前に別の店で発見したので、昨夜はそれをポテトグラタンにしてみた。余っていた食パンもクルトン状にして入れてみる。グラタンソースとよく馴染んで食感をより豊かにしてくれる。
昨夜の晩御飯。
メニュー
・ アンチョビポテトグラタン
・ 肉団子の中華スープ(残り物)
・ サラダ菜とミニトマトのサラダ
・ 黒米入り御飯
月曜日の朝日新聞朝刊の「私の視点」に、宗教哲学者の稲垣久和氏が寄稿され、教育基本法の改正案について押さえておくべき真っ当な論点を展開されていたので、簡単にメモしておきたい。
氏は今回の改正案において、「公共」という概念が「公」という概念と混同され、曖昧化されていると説く。一方で、「公共」とは「特定の国民だけではなくすべての人に開かれている共通の関心事」で「異質な他者と対話し、触れあいながら、協働で生活を築き上げる広場」を意味している。他方で、「「公」は従来の日本語では、国、官、政府、お上、天皇といった「おほやけ」の意味で使われて」きた。したがって、「公共の精神を養う」ということと、「公の秩序を守る」ということは、日本語の用法を尊重するならばまったく異なる意味をもってくる。にもかかわらず、改正案ではこれらが混同され、前者が後者に回収されていくような仕方で修正がなされている。このような言葉の遣い方はまるで「伝統と文化を尊重」(2条5項)していない。それゆえ、法改正を進める前に、これらの重要な概念についての反省も含め、もっと十分に国民的な議論を深めてゆくべきである。以上が氏の論点の骨子である。
一般に、成熟した市民社会を形成するためには、「公共の精神を養い」、それによって「公共空間」を社会のなかに創出してゆくことが必要である。例えば、合意形成や説明責任といった主題群がこの系に属する。他方、「公の秩序を守る」といった文言は、それが「おほやけ」に繋がる意味において使用されるなら、「滅私奉公の心」の涵養という方向へと繋がりかねない危険性をもつ。当然のことながら、国家は個人のためにあるのであって、個人が国家のためにあるのではない。現今の教育基本法においても、教育の目的は第一に「人格の完成」に置かれている。公教育は個人の人格的陶冶を第一に目標とすべきであり、国家有用の人材の創出にそれを当てるべきではない。「人格の完成」という語が曖昧だとして条文から削除しようと提案している政治家たちは、「人格」という歴史ある概念についてきちんと勉強し、その上で必要な議論を尽くしたのか、疑問である。
そもそも政治上の言説においては、多義的に解釈可能な言葉を盛り込むのが常態と化している感がある。かつて三島由紀夫が国会答弁か何かの原稿を頼まれて作成したとき、文章があまりに簡潔明瞭すぎて使い物にならないと判断されたという逸話を聞いたことがある。外交戦略などでそうした多義的な言説が有効に機能する場面もあるとは思うが、今回のような重要な法改正においては、使用される概念がもつ曖昧性は徹底的に排除されるべきである。法律の文章というのは、そこに登場するひらがなを一語変えるだけでも別様な解釈が可能となる場合があるので、それをチェックする際にも、われわれは余程の慎重を期す必要がある。ましてや、立法過程に携わる者が、自らの使用する概念に対して厳密な態度をとるべきなのは言うまでもない。
最終章へ
ようやく修士論文も最終章に到達した。当初の予定では十二月頭には第一稿を仕上げているはずだったのだが、怠惰という他はない。現在総字数は85,000字程度(修論の一般的な目安は80,000字)。最終的に序論と結論を合わせると105,000~110,000字くらいになるだろうか。こうして書き進めてきてみると、段々と記述がシェイプアップされ、贅肉が削ぎ落とされてきたのが分かる。第一章などは贅肉だらけだ。最終章を書き上げた後に再び立ち返って余計な肉を切り落とし、論旨を重複や脱線のない明確な一本の線へと収斂させなければならない。
私の畏友のご尊父である歴史家の三浦陽一先生がブログを立ち上げていると教えてもらったので、ここに紹介しておきたい。氏は言語能力の身体的基盤に着目した〈Sound Steps〉という新しい言語教育法を発明し、現在その普及に努められている。多岐に渡る話題に対して、それぞれ奥深い洞察が開陳されており、読み応えは保証済みだ。このくらいのパワフルさが自分にも欲しいものだ。
ごきげんようチャンネル
言語は身体の振動である。サウンドステップス開発者 三浦 陽一のブログ
コタツ近影。
アップ。
猫マジロ。
昨夜の晩御飯。
メニュー
・ 肉団子と蕪の中華風スープ煮
・ 黒米入り御飯
週末は同居人が出張+帰省だったので、余り料理熱が上がらず適当に済ませる。今夜からはまた意欲を復活させよう。