不買運動について | autochromatics differencia

不買運動について

『ダーウィンの悪夢』という映画に触れて、この映画に対する反応として不買運動を行うことは事態を悪化させるだけだと書きましたが、その理由は以下の通りです。

 まず、不買運動はしばしば絨毯爆撃化します。つまり、不買運動はある特定の企業なり国家なりの意思決定部門に対する抗議として行われるにも関わらず、実際にそれによって損害を被るのは、そうした意思決定部門の当事者だけではありません。例えば現場の生産に携わる労働者、製品の輸送に携わる業者、商品を販売する小売業者、等々、無数の人々がその影響を受けることになります。もちろん、ある企業なり国家なりが不正を働いているのであれば、その不正を正すことに企業の構成員や国民が一定の責を負っているのは確かであり、不買運動はそうした責務の自覚化を促すための効果も有しています。しかし、特に民主的でない企業や国家の場合、構成員は意思決定機関に比べて圧倒的に弱い立場に置かれているのが普通です。それゆえ、責務を自覚したとしても、その責務を果たすための行動に移ることが選択肢として現実性を欠く場合が往々にして存在します。そうした場合、抗議の意志を不買運動によって表明するのではなく、別のより現実的な方法を考え抜かなければなりません。

 例えば今回の場合、ナイルパーチの購入や輸入を停止する行動を行うことによって最も損害を被るのはおそらく現場の漁師の方々です。そして、アフリカの貧困状況を考えれば、そうした漁師の方々には他の現金収入の道がそれほど多く残されているとも思えません。つまり、漁師の方々は自らの食い扶持を稼ぐためにナイルパーチの輸出に依存せざるをえないと想像されます。だとすれば、単純な不買運動は当事者の中でも弱い立場に置かれている人々に集中的な損害を与える可能性があります。そのため、代替的な現金収入の道を準備することへのサポートなしに不買運動を行うことは、逆に非人道的な行為へと結びつく危険性があります。

もちろん、不買運動は消費者が有する権利であり、また自らが不買運動を行う理由を他者へと開示し、他者の判断に影響を与えることも、それが嘘を喧伝する内容でない限り合法です。しかし、不買運動を行うときにその波及効果の及ぶ範囲に対する自覚をもたなければ、正義を行う意志が結果としての不正義へと陥ってしまうこともありえます。

 不買運動は消費者と生産者の非対称性に基づいた抗議行動であり、多くの場合、比較的実行しやすいものです。例えば、日本がナイルパーチの輸入を停止したとしても、それで日本の消費者たちが甚大な被害を受けるわけではありません。そこには他の選択肢が無数に存在しているからです。アメリカ産牛肉の輸入停止措置を見てもこれは明らかです。アメリカ産牛肉を扱う業者はかなりの影響を被ったでしょうが、一部愛好家以外の消費者は特に痛痒を感じなかったはずです。しかし、生産側は他の代替的な商品への切り替えを行うことが不可能な場合があり、そうした場合、生産者の生活は困窮せざるをえません。このように、不買運動はしばしば消費者自身を安全な場所に置いたまま、生産者側に決定的なダメージを与えるという構図になりがちです(公民権運動の時のバス・ボイコット運動のように例外はありますが)。

こうした不買運動の一種の「気軽さ」のゆえに、その運動は抗議の意思を伝える簡易な手段として選択され、運動を行う者の予想していなかった影響を与えてしまう結果になりかねません。ニュースにはすでに映画への反応として欧州でボイコット運動が起こったと書いてありますが、その運動を行った消費者たちがきちんと問題の構図を追及・把握した上で抗議行動を行ったのかどうか懸念されます。おそらく、自らの直面するジレンマに対する回避行動として選択されているにすぎないと思います。

 ここまで書いて、映画の公式サイトを観てみたら、監督へのインタビューでボイコット運動について言及されていました。監督はこうした問題を自覚しつつ作品を撮られたようです。

http://www.darwin-movie.jp/

いずれにせよ、『ダーウィンの悪夢』、実際に観てみようと思います。