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料理バトン

バトンシリーズ第二弾。

Mixi〕でrienさんから「料理バトン」が回ってきたので解答しておきます。


料理歴はどのくらい?

中学生時代からだから10年くらい。

本格的に料理を始めたのは大学に入って一人暮らしを始めてから。


得意(好き)な材料は?
鶏肉と茄子、およびきのこ類。

得意料理は豚の角煮、鯖の味噌煮。


よくつかう(好きな)調味料は?
味覇(ウェイハー)と醤油。


よくつかう調理器具
フライパン。


料理をひとことでいうと
楽器の代用物。


料理バトンをまわすひと

saron-sayukoさんhttp://ameblo.jp/saron-sayuko/

domaeさん、Kさん、ankhkenさんhttp://ameblo.jp/hlpmt/

MaSaさんhttp://br-eye-ght.ameblo.jp/

Syouiさんhttp://blog.livedoor.jp/syoui/

Mixi内:ヒロポンさん、あっきょさん、揚羽さん、ツバキさん、緋鍵先生


みなさんよろしく。


子どもの詩性

ことばのふしぎ


家庭教師を受け持っている小六の男の子に、言語学の大家である池上嘉彦先生の『ふしぎなことば ことばのふしぎ』(筑摩書房)をプレゼントした。この本は記号論的な観点からみたことばの世界の不思議さを、なぞなぞや問いかけを含んだ柔らかな文章で含蓄豊かに綴った中学生向けの良書で、大人が読んでも愉しめる内容の奥行きをもっている。皆さんも見かけたら是非手にとって欲しい。


ことばは文化の土壌であり、長い歴史的な堆積のなかで、経験に養われると同時に経験を養い、様々な局所的な変化を経て構造化を成し遂げてきたし、今も成し遂げつつある。そうしたことばの構造のなかには、文字通りに受けとると非常に不思議な印象を与え、次々と疑問を募らせるものが数多く存在している。その不思議さは、時には文学や言語学の入り口となるものだが、大人がことばに対する態度を慣習化させていくなかで摩滅してしまうものでもある。この本を大人が読んでも愉しめるのは、そうした慣習化された言語的感性を再活性化し、積年の錆や埃を揺り落としてくれるからだ。例えばこんな文章がある。


 『私たちのごく日常的な経験として、小さい子どもといっしょにいると、子どもの言うことばが非常に詩的に聞こえるという経験を、おそらくだれしもが多かれ少なかれしたしたことがあるのではないでしょうか。たとえば、子どもがサイダーを初めて飲んで、その時の印象を、「水がのどにかみついたよ」と表現している――私たちが聞くと、何かとっても詩的な感じでおもしろい。あるいは、庭に落ちている木の葉が風に吹かれて舞っているとき、「木の葉が踊っているよ」とか、風が吹いてきて本のページがパラパラとめくれるのを見て、「風が本を読んでいるよ」というような言い方をする。』

  でも、どうして「親切」と書くのでしょうか。「親を切る」ことは、とても「しんせつ」な行為とは思えません。ほんとうは、こういうことだったそうです―「親切」は昔は「深切」と書きました。そして「身を深く切られるように、身にしみること」という意味 だったそうです。ここまでくれば、どうして「親」と「切」という字がはいっているのかが分かります。』


 この生徒の母親は小学生たちの「ことばの乱れ」を気にしていたが、この子と会話を交わしていると、その事象解釈の独特さに感銘を受けることも多い。教えることは教えられること、なのだ。


子どものことば遣いが大人からすると意外性を含んだ「詩的な」ものと感じられるのは、第一に、彼らが自身の狭い経験の範囲で得た知識を元手にして、新奇な経験を名付けようとするからだろう。サイダーを飲むという新奇な経験は、「噛み付かれる痛み」という手持ちの経験との照応から表現を与えられる。同じく炭酸飲料の喉越しを「静電気」と表現したり、賽銭箱を「神様の貯金箱」と表現したり、あるいはアイスを食べた時の体内の冷えを「お腹のなかに雪が降る」と表現したり、子どもは自身の理解可能な経験の圏内から、その圏外の未習得な経験を理解しようとする傾向があり、それが大人たちには新鮮に聴こえるのである。


 しかし逆に、子どもの表現手段の乏しさが、経験した事象の忠実な表出をもたらすこともある。中岡成文の『臨床的理性批判』で挙げられている例を引けば、五歳のある男の子が「幼稚園は楽しいか」と聞かれてこう応えたという。「○○ちゃんとお手々をつなぐと、ハートがぐるぐる巻きになって、お口が開かなくなっちゃうの」。大人であれば簡単に「好き」というところを、手持ちの言語的手段から身体感覚に忠実な表現を与えようとすることによって、感心を誘うほどに「腑に落ちる」表現が出てくる。


大人の言葉はある意味「経済的」であるため、多くの表現を簡素化して経験を単一化・平板化してしまうのだが、手持ちの手段の「非経済性」のゆえにこそ、巧まずして経験をなぞる忠実な表出がもたらされることもあるのである。子どもの感受する経験の方が「豊か」なのか「乏しい」のかは、一概に断定することのできる事柄ではない。


 「ことばの乱れ」という常套句的な判断も一概に断定できない事柄のひとつである。ことばが時代や集団ごとに変化してゆくことはそれ自体むしろことばの常態に属する。子どもや若者が自分たちの集団のみで通じる「共認語」を発明してゆくことは、規範や慣習からの堕落というよりもむしろことばの創造性の表れであり、そうした共認語を通じて彼らは集団の「同族意識」を高めアイデンティティーを確認していく。もちろん共認語が集団の閉鎖性や排他性をかたちづくることも事実であり、他者への寛容性という観点からすれば憂慮すべき事柄でもある。しかし、それが「乱れ」として感じられる背景には、理解できない「新しいもの」を「劣ったもの」として低く評価し、レッテル張りをすることによって安心を得ようとする大人の側のもつ寛容性の欠如も潜んでいることに思い致すべきだろう。


 だが、「若者ことば」が語彙の貧困化や短文化へと傾斜しているという側面があることも、一時期、実際に観察された事実である(現在はどうなのだろう?)。どんな言語表現を使用しているのかは、多くの場合、「世界への態度」と密接に関わっている。世界に「密着」しようとする志向を強く持つ時には、その志向が肯定的な態度からのものであれ否定的な態度からのものであれ、経験を解きほぐし、それに形を与えるための言語表現が平板な短文で済む筈はない。


 大人たちは、頭ごなしに若者ことばの「乱れ」を叱責する前に、彼らが志向しようとするような魅力ある「文化」を自分達が形成しえているか、そして自分たちのことばが経験から乖離した空疎なものとなっていないかを問い直した方がいい。こうした問いを直視してみると、愕然とすることが多いと気付く筈だ。

下町のゲルニカ

最近はもっぱら大学図書館を利用しているが、一時期、清澄庭園に隣接する深川図書館によく通っていた。

深川

石造りの硬質な外観と窓から覗く庭園の風景はともに沈思を誘い、落ち着いて読書に耽ることができる。


先日、この図書館からの帰りがけに高橋商店街(「のらくろ」の作者田河水泡ゆかりの地で、「のらくろ~ド」として知られる)を歩いていると、ある洋品店の屋根際に据えられた看板が目にとまった。

ゲルニカ1

それは、ピカソの「ゲルニカ」だった。

ゲルニカ2

この商店街の先には東京都現代美術館があり、その関係で描かれたのだろう。

下町情緒たっぷりの町並みと現代美術の金字塔との対照に惹かれ、思わずシャッターを切る。


しかし、しばらくしてふと思い当たる。

ここにゲルニカが掲げられているのは、たんなる地域振興のためではないのではないか。

「ゲルニカ」はスペイン戦争時、ナチスドイツ軍によって無差別爆撃を被って破壊された街のその惨劇への怒りを象徴的次元にまで高め刻印したものだ。

同じように、この商店街のあたりも東京大空襲で大被害を受け焦土と化した歴史的経験をもつ。

この商店街の「ゲルニカ」は、戦争という圧倒的な暴力の残した傷跡を通じて、ふたつの歴史的経験を重ね合わせ、人間性の内なる野蛮や愚かさを見つめ返させるものではないか。

そこには、おそらくは戦争中の経験を胸に秘めたまま戦後を過ごしてきた近隣住民の切なる願いや祈りも込められているに相違ない。

街を急ぐ人々の目には気付かれることもないであろう、天を仰いで佇むこの一回り小さな「ゲルニカ」は、ある歴史的経験を人類一般の「普遍史的課題」へと昇華する現代美術の努力を刻印し、今日も下町の日常を静かに眼差している。

トポロジカル・デザイン

連れ合いが某ショップのセール招待葉書を受け取ったので、その付き添いで自由が丘へと赴く。

自由が丘へは定期からの乗り継ぎで安く行くことができる。


目当てのセールにはそれほどの収穫はなかったが、帰り際、ガード下に並ぶ店先のひとつに、不思議な魅力を放つ服がディスプレイされているのを発見する。

一部を素材観の異なるパッチワークで構成したワンピースなのだが、配色と空間的造形の妙が際立っていた。


店に入ると、服で埋もれた2畳ほどの狭い店内から、白い不精髭を生やした中年の店主が現れ、「どれが気になったの?」と声を掛けてくる。

丸みを帯びた声の持ち主で、諧謔の効いた語り口はH大イタリア語の名物教授であるK先生に酷似している。


連れ合いが色々な服を着せてもらっているその傍ら、店主と様々な話を交わす。

彼は元々KENZOと関わって服作りをしていたそうだが、例えば、ショーに来る日本人プレスが新作情報を日本のメーカーに流し、粗悪な作りの模造品がKENZO自身のリリースよりも早く市場に出回るなど、創造性を軽視した業界の悪しき体質に閉口して独立したらしい。

そして、小さいながらもショップを構え、模倣を許さない一点モノを作り続けている。


店主のデザインする服はどれも自由な発想で着られるもので、首を通す箇所を変えるとワンピースがマントに変貌したり、穴のような変形ポケットを結び合わせると意外なドレープが生まれたり、想像力を刺激する工夫に満ちている。

どの服も平面からではなく立体から出発して造形されているのが分かる。

彼の息子は位相幾何学を勉強しているらしく、なるほど血筋を感じさせる。


連れは穏やかな黄色を基調とした変形ベストを、僕は穴ポケットつきのTシャツを購入する。

若者から金を取るのは忍びないと、これで元が取れるのかと思うほど値引きしてくれた。


T

左脇の穴がポケット。


このblogを読んだ方も自由が丘へ行くことがあれば、ガード下にあるので是非探してみて下さい。

目立たないショップなので見つけ出すのは一苦労かもしれませんが。

Musical Baton

MaSa から指名されたので、Musical Batonを引き継いで答えてみた。

Total volume of music files on my computer

(パソコンに入っている音楽ファイルの総バイト数は?)


 655 MB

(友人から送られたファイルやフリーダウンロードのファイルのみ)


Song playing right now

(たった今聴いてる音楽は何?)

 The Flaming Lips / Fight Test in “YOSHIMI BATTLES THE PINK ROBOTS”


The last CD I brought

  (一番最近どんなCD買った?)

   DRA YANG / The best selection of Tibetan Arts

(最近は専らレンタルのみ。これはジンガロ公演会場で購入したチベット音楽)



  ・Five songs I listen to a lot, or that means a lot to me

  (宝物のように大事にしている曲を5つ挙げるとしたら?)

   artist / tune or song

(my review)

 

   Mouse on Mars / CHROMATICS

 (全ての存在者の周囲を流れる音の河、その河床へと降りてゆくための音楽)

  

   Gel: / Narcissisme & Paranoia

 (これは室内楽である、可視性の開かれに内側から立会うものとしての

  

   Boards of Canada / Julie and candy

  (無限論の教室への招待状)

   BELLE & SEBASTIAN / Beyond The Sunrise

  (情景の才人)

   Bill Evans / スパルタカス愛のテーマ

  (それは類稀な瞬間、雲間から覗いた宝石箱) 

  最後に、Kとアンカケンにバトンを振っておきます。

 

 こんなところかな。

 バトンを渡す人が少ないんだけど、なかなか面白いのでどうですか、そこのあなた?

歌浴び

一昨日のことになるが、近所で友人のライヴがあったので顔を出してきた。


彼女(うぉんみちゃん)は、学部時代の友人の恋人(とてもチャーミング)で、会場に着くとちょうどその友人がチラシ配りを手伝っているところだった。


(彼女のHPはこちら http://www.stdisk.com/wonmi/wonmi.html


軽く挨拶を交わすとちょうど彼女の出演時間になったので、客席に立ちその歌声に聴き入る。


会場の音響はあまり誉められたものではないが、それでも伸びのある艶やかな美声が拡がる。


彼女の歌声には、心の砂地に降る柔らかい雨のような、心の琴線に触れ、その懐かしい古層を静かに揺り動かすものが確かに潜んでいる。


しかし、惜しい。

友人もつぶやくように言っていたが、綺麗に歌いすぎるきらいがあり、その潜勢力がスッと聞き手側に降りてこないようにも感じられてしまう。

本格的な声楽の訓練を受けてきたので、その影響が強いという面もあるのだろう。

今年一年はライヴを重ね、経験を積むつもりだという。

楽曲自体もより魅力あるものにできるはずだ。

今度逢ったらポート・オブ・ノーツでも勧めようか。

ライブ後、二人と近くの焼肉屋に入り、色々な話を交わす。

楽しい時間を過ごさせてもらった。

また友人たちを集めて再会しようと約し、その場を後にした。

ことばの故郷

僕の敬愛する演出家竹内敏晴は、自身の指導する教室での、次のような印象深いエピソードを報告している。

 

「私の教室で学んだ一人に山形県出身の女性があった。あるときハムレットの有名な独白『生きつづける、生きつづけない、それがむつかしいところだ』を山形弁でやってみた。かの女は生粋の山形弁など使えないと困っていたが、試みているうちにふいと子どものころかわいがられたお婆さんの語り口を思い出した。そのとたんのかの女の変わりようは見ものだった。べったりと腰を落とし、背をまるめ、手でいざるように動きながら『生きつづける、生きつづけない……』一音一音が重く確かに、そしてみごとなメロディとリズムを持って、これが昂揚してゆけば確かに歌になるだろうと予感させた。デンマークの王子の青くさい心のうずきは、暗い炉端の死を間近にした老婆の諦念と怨念の闘いに変貌した」。

 

方言のもつ「イメージ喚起力」を如実に示すエピソードだ。

 

私たちのことばは、しばしばそう思われているように、語彙の集合を文法規則にしたがって頭のなかで組み合わせた結果の、たんなる一連の記号なのだろうか。

現代の言語学はこうした言語観とは異なったことばのあり方を示している。

それによれば、ことばはイメージ溢れることば以前の身体的交流に出身地を持ち、その地との確かなつながりをもった「生きられた記号」なのだ。

 

幼児が初めて覚えることばの多くは、身体で触れることができ、ジェスチャーを通じてなぞることのできる対象を名づけるものである。

幼き日々の身体活動を通して得られるイメージ群にともなわれることによって、初めてことばは現実感覚をもつ「生きられたもの」として出立してくる。

こうした幼時の身体活動を通じた対象との交流の場こそが、「故郷」と呼ぶにふさわしい地ではないだろうか。

それは「制度」としての故郷とは一線を画す、「風景」としての故郷とでもいうべきものだ。

私たちのことばは、こうした「故郷」へと着床することを通じて初めて、上記引用のような豊かなイメージを喚起する「力」を手にすることができる。

愛着の深いお婆ちゃんの仕草を想い返し、それを身体でなぞることで「故郷」へと錨を降ろした彼女は、失われていたことばの「力」を呼び覚ますことができた。

この時初めて、彼女のことばは「歌うことのできるもの」になった、と言ってもいい。

 

方言には、その土地の文化的・自然的環境に由来する生活感情が刻印されている。

それは民謡を聴くとよくわかる。

しかし、近代という時代は、土着的な方言を廃棄し、国民としての共通の基盤をかたちづくるための「標準語」を導入するという一大事業をやってのけた。

日本では、近代化を推進する過程で「標準語」を普及し定着させるために「方言排斥運動」が行われた。

学校教育の現場では、「罰礼」と呼ばれる木札が、方言をうっかり口にした生徒の首にかけられたという。

しかも、この罰礼をつけられた生徒は、仲間内で同じ間違いを犯したものを密告することで、それを外すことを許された。

過ちを犯したものをさらし者にし屈辱感を与え、しかも集団内に監視の眼を張りめぐらせることによって、方言は恥の対象となり、急速に「標準語」へと置き換えられていった。

 

こうして半ば暴力的に植え付けられた「標準語」は、方言のもつ活き活きとした語り口を奪い、人々の現実感覚を弱めてしまった。

 

敗戦後の瓦礫という「故郷」喪失状態のなかで、竹内敏晴は「もう一度ことばを命名し直す」という困難な道を歩んだ。

コンクリートとガラス、プラスティックに囲まれた檻の中で暮らす、環境との身体的な交流の乏しい私たちにも、同じ課題がダモクレスの剣のように頭上にぶらさがっているのではないか。

図書館的幻想

社会学の次回のゼミで発表者が扱うため、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』を読んだ。


「ヘーゲルはどこかで述べている。すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と、彼はつけ加えるのを忘れたのだ」という名文で始まる古典的名著だ。


なのだが、他は貸し出し済みだったので、図書館で借りられたのは昭和二十九年発行の岩波文庫版の第一刷のみ。

その貴重な古書の中身はこちら。


ルイ・ボナパルト  


黄ばみ方が時代がかり、古色蒼然たる風貌だ。

何かを――おそらくは「革命」や「真理」といった古き理想を――求める数知れぬ人々の手垢が、情念の澱のようにそこには染み付いている。

ページの狭間からは熟成された甘い香りさえ漂ってくる。

もちろん字体は旧字体。

しかもハードカバー。

昔の岩波文庫はハードカバーだったのだ。


こんな書物を読んでいると、時間は褪色し、どこか遠い歴史の彼方へと連れ戻されるような気分になる。

書物がいまだ稀少品で、知の権威を一手に担うメディアであった時代に。


「図書館の権威は、ひとえにその存在自体に――印刷された紙の果てしなき繁茂に――かかっているのである」

フーコー『幻想の図書館』より

始めに

どうも皆様、こんにちは。

観音樹kan-non-juです。


友人間でblog熱が流行しているようなので、僭越ながらわたくしも感染させていただこうと思います。

流行り病に終わらぬよう、持病として長く患っていきたい。


わたくしを知悉している友人たちはご承知でしょうが、わたくしの悪い癖といたしまして、文章が難渋になる傾向があります(職業柄仕方ないことではありますが)。

この場ではなるべくその傾向を排しつつ、軽い語り口で日々の雑記を書き綴っていきたいと思います。


何かコメントがあったら気軽にお寄せください。


blogらしく、個人的な趣味趣向も書いておきましょう。

電子音楽が好きです。Mouse on Mars, Boards of Canada, Gel:, Tujiko Noriko, takagi masakatsu, aoki takamasa, rei harakami, Hanno Yoshihiro, CALMなどなど。

映画もたまに観ます。カラックス、タルコフスキー、アンゲロブロス、往時のウォン・カーウァイ、チャップリン、小津安二郎、ノルシュテインが好きです。

文学も齧ります。ル・クレジオ、ガルシア・マルケス、ボルヘス、エンデ、村上春樹、長田弘、西脇順三郎などなど。

他に好きな書き手は、メルロ=ポンティ、ベルクソン、菅野盾樹、佐藤信夫などなど。

あと、珈琲と猫を病的に、飢餓的に愛しています。

倫理学4

1.「人格の尊厳」の根拠はどこにあるか。討議倫理学あるいはカント倫理学を参照して答えよ。


 伝統的なキリスト教においては、人間は「神の似姿」であり、その限りにおいて他の生物や自然的事物に対して超越的な価値を有するとされた。人間の尊厳は人間にとって外的な根拠に帰されていたのである。しかしカントは、人間の尊厳は人間そのものに由来すると考え、人間は人格であるとし、人格は他の諸事物とは隔絶した比類ない尊厳を有すると唱えたのである。

 われわれが何かを達成しようとして行為に及ぶとき、われわれは目的を定立しそれを志向しつつ行為を行う。カントは、行為における目的設定の根拠の差異によって行為の諸目的の間に二つの区別を導入している。一方は欲求などの傾向性に基づいた主観的目的であり、他方は理性的存在者すべてに妥当する意志作用に基づいた客観的目的である。主観的目的に価値を与えるのは、それ自体相対的な価値しか持たない傾向性であるため、この目的も相対的価値しか持ちえず、「仮言命法」の根拠となるにすぎない。

 では、もう一方の客観的目的とはいかなる価値に基づいたものなのだろうか? カントによれば、この客観的目的こそが絶対的な価値を持ち、それゆえに「定言命法」の根拠となるものなのである。それは「目的それ自体」としての理性的存在者一般であり、その人間性、その人格である。他のあらゆるものは欲求の対象に過ぎず、それゆえ相対的な価値を持つにすぎないのに対し、人間性および人格は絶対的な価値の担い手であり、道徳法則に実質的な根拠を付与するものなのである。ここにおいて、カントは「目的自体の定式」を打ち立てる。すなわち、それは「汝の人格の中にも他の全ての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、という風に行為せよ」というものである(3)

 しかし何故、人格はそれ自体として絶対的な価値を有しているとされるのだろうか? カントによれば、人格が絶対的な価値を有するのは、その理性能力の故であり、その自由な選択意志の故である。カントの自然観は基本的にはニュートン的な機械論的自然観であり、その限り自然の事物は自然法則によって受動的に規定されている。これに対して、理性的存在者は自らの意志によって行為を規定することができ、自由な目的設定の主体として能動的に振舞うことが出来る。この点から、カントは理性的存在者を人格、自然の事物を物件として、鋭く峻別するのである。ただし、われわれの行為は常に能動的であるというわけではない。われわれの行為が欲求などの感性的衝動に従ってなされるならば、それは他律的であり、倫理的妥当性を有しない。われわれの行為が意志による自己立法に従ってなされる場合のみ、それは自律的であり、倫理的な行為となりうるのである。

 このように、カントは「人格の尊厳」の根拠をその理性能力による意志の自律のうちに看て取った。人格が道徳的行為の主体として自己立法を行い、自己を定言命法のうちに自己拘束する可能性を有するところにその尊厳の根拠が存するのである。(1237字)


2.「誤った良心ですら拘束的である」と考えることができるのはなぜか。


 良心は歴史的には、道徳的意識の源泉として自覚されるようになる。古代ギリシア神話からユダヤ、キリスト教を経て現代の実存主義に至るまで、良心は様々な学説の内に多様な相貌を持って展開されてきた。カントにおいては、それは理性の内的法廷であり、行為が普遍的法則や義務に適っているかどうかを判定する役割を担うものとなった。一方、全ての形而上学を否定し、その転覆を図ったニーチェは、良心とはわれわれが成長の過程で他者から要求されてきた権威的な命令の刻印であり、良心の源泉は神の存在や普遍的理性ではなく、それら権威に対する信仰であるとした。「したがって良心は、人間の胸のうちにある神の声ではなく、人間のなかの何人かの人間の声なのである」(4)。良心を、社会的規範や慣習、権威の内面化されたものとして捉えたのである。

 中世スコラ学の最大の哲学者であるトマス・アクィナスは、その倫理思想において、良心を独自の規定のもとに位置付けた。トマスは良心を良知(synderesis)との関係のもとに考察した。

彼によれば、倫理の領域において、思弁的理性とは峻別される実践理性の第一の原理は人間の究極目的へと向かう意志の自然的本性である。これは思弁的理性の第一原理が全的な存在の把握であるのといわば表裏の関係をなしている。この究極目的とは、実践的理性が「自然的に」把握するところの―――その限りで実践理性の範疇を超えており、実践理性によっては到達することはできないが、到達への方向づけ、秩序づけを与えるところの―――全的な善つまりは真正善である。善は様々に述語づけられるものであり、同語異義的な多様なものである。この善のうち、最も先なるものであり、完全な意味での善であるものこそが、真正善である。またトマスは、この実践的第一原理、つまりは全的な善を「自然法」として捉えている。トマスによれば、全的な善の把握は、実践的理性による自然的認識によってなされるとされている。この自然的認識とはどのようなものなのであろうか。全的な善は人間にとって超越的であり、実践的理性はそれをそのものとしては認識できない。この自然的認識を成立させるのは、無限へと向かう超越の能力としての意志の働きである。実践的理性による全的な善の根源的把握とは、この意志による全的な善を対象とした自然的な倫理的善の秩序づけを認識することである。全的な善としての自然法は自然的認識によって把握される限り、成文化されることの不可能な「書かれざる法」であらざるを得ない。

こうした善の観念により、実践的理性によって実現された限りでの倫理的善は相対的であらざるを得ないことが帰結する。ただし、我々の選択が超越の能力としての自然本性的な意志による全的善の把握に基づいている場合には、それが正しいものとなり、人間にとって追究するに相応しい善となるのである。

ここで本題に入ろう。トマスによれば、良知とは最上の実践的原理を把握する自然的能力であり、良心は良知によって把握された原理を行為の選択に適用する働きである。従って、良知は先の意味での自然的把握であり無謬であるのに対し、良心は相対的な倫理的善に関わる限りで可謬つまりは誤りうるものである。したがって、我々の行為を実践の領域において指導するのは良心なのだから、たとえ良心が可謬であろうとそれは拘束的なのである。(1386)


3.あなたがジムの立場に置かれたならば、どのように行為すべきであろうか。


 まずは状況をおさらいしておこう。ジムが陥っている厳しい二者択一とは以下のものであった。すなわち、今まさに処刑されようとしている20人の住人を前に、ジムは(a)住人のひとりを射殺すれば、残りの19人は助かる、(b)誰も射殺しなければ、20人全員が処刑される、という二つの選択肢のいずれかを選ばなければならない。

 この時、結果主義的な立場に立つならば、ジムは全体の功利性を考慮して、(a)を選択するだろう。20人の死と1人の死では、明らかに20人の死の方が幸福の総減少量が多いからである。

 一方、義務論的な立場に立つならば、ジムは「汝殺すなかれ」という完全義務にしたがって(b)を選択するだろう。他者を殺害することは、目的自体としての他者の人格を廃棄することであり、殺人を犯さない義務に違反するからである。

 こうして、それぞれの立場によって選択される行為が異なったものとなることが明らかとなった。したがって、この相剋を解消する為にはどちらの原理が優先するのかが問われなければならない。

 ここで、行為判定の条件として以下の四項目を導入しよう(5)

(1) 行為自体が(結果とは独立に)、倫理的に善であるか、倫理的に中立的でなければならない。

(2) 行為者はよい結果のみを意図し、悪い結果を意図してはならない。

(3) 悪い結果は、よい結果をもたらすための手段であってはならない。

(4) よい結果は、許容された害悪よりも勝っていなければならない。

これによれば、(a)は(1)、(2)、(3)に対しては○であり、(4)に対しては×である。

一方、(b)は(1)、(2)、(3)に対しては×であり、(4)に対しては○である。

(2)、(3)は行為者相対主義(義務論)に適合的であり、(4)は行為者中立主義(結果主義)に適合的である。したがって、(2)、(3)と(4)のどちらが優先されるかが確定されれば、義務論と結果主義の間の優先順位の問題は解決される筈である。

 戦略爆撃とテロ爆撃、医療資源の配分と医学実験の例(6)では、(4)は両者について同一であるのに対し、(2)、(3)では違いが現れる。戦略爆撃と医療資源の配分は○であり、テロ爆撃と医学実験は×である。我々の道徳的常識は両者の間の区別を認識するのであり、もし結果主義が優位にあるならば、それぞれの間にある差異を説明できなくなる。

 トロリー電車問題の例(7)では、ポイントを切り替えることによって救われる人間と轢死する人間が入れ替わるが、両者の関係は手段―目的の関係ではない。この場合、ポイントを切り替えても切り替えなくても(3)の値は変わらない。(4)の値は変わるが、(4)によって行為が判定されるのは、(2)、(3)の値に差異がない場合に限られる。

したがって、義務論は結果主義の判定に優先するのである。以上より、ジムは(b)を選ぶべきであることが帰結する。

しかし、疑問は残る。もしジムがひとりの住人を銃殺しないならば、20人全員が死ぬことになる。しかし、ジムの選択次第では19人が助かるのである。この緊迫した状況下では、ジムが銃殺を拒否することはすなわち、誰も射殺しないだけではなく、住民全員を見殺しにすることをも意味しないだろうか。だとすればジムは、殺人を犯さないというという義務と、他者を見殺しにしてはならないという義務との間で板挟みになるのではないか。

さらに、義務論ではコンテクストによって変わる行為の意味を考慮できないのではないだろうか。例えば、私が倹約すべきか消費すべきか、それを普遍化可能性によって確定しようとすれば、その時々の経済状況に依存せざるを得ないだろう(倹約を普遍化すれば不況に陥る。他方、デフレ下では消費が推奨される。もちろん第三世界に対する構造的な不均衡を考慮に入れるならば選択はさらに変転するだろう)。殺人の持つ意味でさえもコンテクストによる変化を免れえないのであり、そうしたコンテクストを考慮に入れた理論形成がなされなければ、義務論をそのまま受け入れる訳にはいかないように思われる。(1668字)