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ヘテロトピア


皆様、明けましておめでとうございます。更新の不定期で僅少な本ブログですが、今年も筆者ともども宜しくお願いします。時々、“mobile”というタイトルで意味不明な短文が投稿されると思いますが、携帯から備忘メモを送っているだけなので気になさらずに。今回は芸術の話。



 昨年の初冬に横浜トリエンナーレへ出向いたのだが、その展示作品たちを観るに、現代芸術の趨勢について失望の感を濃くさせられた。必ずしもあの場に出品された作家たちの作品がその趨勢の集約ではないということを願ってはいるのだが、それにしても日本最大級のアートフェスティバルへの出品作品があのレベルでは、芸術を期待する心が萎えてしまう。哲学を学ぶ者としては、頭の堅い鈍重な哲学に先んじて、芸術が生の感覚を未来予知的な仕方で先鋭に切り取って、それをアモルフな状態であれ、われわれの前に開陳してくれるのを待望しているのに、である。実際、この芸術家についてならより深く勉強してもよいと素直に感得させられる人に出逢える機会が最近ますます減少している気がする。


そんな意気阻喪させる状況のなかで、イギリスの彫刻家であるアントニー・ゴームリー(Antony Gormley)だけは例外である(日本では、箱根彫刻の森美術館に「密着」と題された彼の作品が常設されている。昨年末に足を運んで観に行ってきた)。彼は人体を鋳抜いた概念的な彫刻作品に定評があるが、その作品のなかに“Another Place”と題された彫刻群がある。これはリヴァプールの海岸に設置された人体彫刻群で、水平線に対面するように、地の果てを見つめながら静かに立ち並んでいる。その近辺には、彼の次のような言葉を記した立札が掲げられている。


"The seaside is a good place to do this. Here time is tested by tide, architecture by the elements and the prevalence of sky seems to question the earth's substance. In this work human life is tested against planetary time. This sculpture exposes to light and time the nakedness of a particular and peculiar body. It is no hero, no ideal, just the industrially reproduced body of a middle-aged man trying to remain standing and trying to breathe, facing a horizon busy with ships moving materials and manufactured things around the planet. "


(拙訳)「海岸はこのプロジェクトを行うのに適切な場所である。ここでは、時間は潮汐や諸元素の構造によって試練にさらされており、空の盛衰は地球の本質を問うているかのようである。この作品において、人間の生は惑星の時間に抗して試練を受ける。この彫刻は固有で独特な身体の裸の姿を光と時間にさらす。それは英雄像や理想像ではなく、ただの工業的に複製された中年男性の身体であり、様々な素材や工業製品を載せて惑星を巡る船が忙しく行き交っている水平線を眼の前に、じっと立ち続け、呼吸をしようとしている」。

Another Place 1

Another Place 2


 一般に、大作家になればなるほどそのテーマは簡素を極め、作品も一切の無駄のない裸の形象へと還元されてゆく。彫刻家で言えばジャコメッティやイサム・ノグチはその典型であろう。前者は「実存」へ、後者は「自然との融合」へ向かった。そのテーマは極めてシンプルであるが、作品はあらゆる虚飾を薙ぎ払った極限的形態へと辿り着かんとしたのである。まだ実際の作品に多く触れているわけではないが、ゴームリーもそうした系列に並びうる芸術家ではないかという感触をもっている。手に入る彼の著作や研究書は原語の英語版のみだが、今月中には入手しようと考えている。

疑う

「pを疑う」という志向的状態の充足条件は、「p」でも「not p」でもなく、その両者が未決定の状態で併存しているとき、である。

ファッション・バトン

久方ぶりですみなみな様。

ヒロポンさんからまわってきたファッションバトンにお答えしましょう。


01 最近のお気に入りコーディネイトをどうぞ。


もうコートが手放せない季節なので、基本は手持ちのコートをサイクルさせて。

インナーとしては柔らかいニットを着ることが多いです。

足元はコンバースかミハラ・ヤスヒロが主。

ミハラはもうぼろぼろなのだけど、デザイナー本人が「自分の靴をぼろぼろに使い込んでいる人とすれ違うことが嬉しい」とおっしゃられていたのもあり、いつか実際にすれ違う日を楽しみに履き続けています。


02 好きなブランドを3つ厳選して答えてください。


クリストフ・ルメールが一等好きです。

所有しているアイテム数も一番多い。

ここの服は素材・色味・カットのすべてが絶妙です。

エスプリの配し方も粋を極めています。

正規ラインが停止中なのが残念ですが。

あとはジョゼ・レヴィとシンイチロウ・アラカワ。

パリのブランドが好きらしい。


03 よく読むファッション雑誌は何ですか?


ミスターハイファッションが廃刊になってからほとんど読んでいません。

たまに女性ファッション誌を立ち読みする程度。

高校生の頃はハイファッションに加えて、メンノとチェックメイトとファインボーイズ、そしてスマートをすべて読んでいました。


04 買い物は、どこの町に行く事が多いですか?


あまり最近は服を買いにでない。

フリマが主な調達源です。

新宿中央公園のフリマがお勧め。


05 買い物は一人で行く派?それとも友達と行く派?


いまは大体連れの買い物に付き添って行くことが多い。

そのついでに自分も買うというパターンです。


06 今まで買った中で、一番高価なお洋服(または小物)


友人の多くからは不評なシンイチロウ・アラカワのコート。

あるいはルメールのジャケットかな。


07 最近買ったお気に入りアイテムを紹介してください。


あまり「これは」というものがありませんが、フリマで購入したアダム・エ・ロペのジャケットは重宝しています。


08 好きな色の組み合わせは?


黒をベースに、白や紺、カーキを散らばせるという配色が多い。

主な色使いを三色以内に収めるのが鉄則。

昔から全く変わってない。


09 おしゃれに目覚めたのは、何歳のとき?


高校生になってから。

田舎育ちなので。


10 振り返りたくない過去の自分の服装を告白してください。


別にどの時代の格好も振り返って忸怩たる思いに捕らわれる事はありません。

アイテム単位では失敗したアイテムもいくつかあったけど、高校生の時に買ったアイテムを今も現役で着ているくらいなので、マイナーチェンジは重ねても、基本路線にほぼ変化はないようです。


11 お金が無い時、食費とおしゃれ代、どっちを削ります か?


おしゃれ代。

食事は活動の基本なので。


12 好きな異性のファッションは??


レトロなアイテムをさらりと、しかし斬新に着こなしている人には眼がいく。

ファッションじゃないがショートカットが似合う人には大概弱い。

『ボーイ・ミーツ・ガール』のミレーユ・ペリエとか。

『恋する惑星』でのフェイ・ウォンの髪型の変化(スチュワーデスのなってからの)にはつねづね納得がいかない。


13 お疲れ様でした。5人のおしゃれさんに、このバトンを回してください


じゃあrienさんとあっこさんどうぞ。




真夜中の虹

カウリスマキ



『真夜中の虹』 アキ・カウリスマキ


 冒頭、主人公の男が勤める鉱山がダイナマイトで爆破され、閉山を迎えるところから物語は始まる。スウェーデンは深刻な不況に覆われ、失業率は高騰を続けている。この鉱山もその煽りを受けたのだ。鉱夫たちの顔には一様に疲労と諦念の色が滲み出ている。元同僚はおおよそ次のような言葉を残し、銃で自らの頭を打ち抜いて、死んだ。「この雪で覆われた土地を捨て、南へ出ろ。俺の車をくれてやる。お前は未来を選べ。俺はもうひとつの選択肢を選ぶ」。


 主人公が譲り受けたのはリンカーンコンバーティブル。しかし、その幌は閉じられることなく、主人公は「屋根」を欠いたまま雪の降るなか闇雲に走り出す。それは、「家」を失い、「漂泊者」となることを刻銘された、その路程を暗示しているかのようである。


 やがて主人公は都会へ出る。しかし、新たな土地へ着くなり、頭を殴られ、なけなしの金を強奪されるという憂き目に会う。そして、いっこうに勤め先の見つからないなか、唯一の収入源であった闇ルートでの臨時雇いの道も、雇い主の逮捕によって絶たれてしまう。寝床にしていた教会からも追い出され、主人公が頼ることのできるのは、偶然出会ったひとりの女だけだ。彼女は様々な労務をこなしながら女手ひとつで一人息子を育てている。絶望感が蔓延するこの社会のなかで、彼が静かな安らぎのようなものを見出すことができるのは、彼女とその子どものなかだけだった。主人公と彼女は心静かに愛し合い、互いの存在を擦り合わせる。そんななか、主人公は自分の金を強奪した犯人に偶然再会する。逃げる犯人を追い詰め、自らに突きつけられたナイフを逆に奪い取り、その犯人を組み伏せる。ナイフを相手の喉元に突きつけたところで、主人公は駆けつけた警察官に捕まってしまう。そして、ろくな審議も経ぬままに刑務所へと収監されてしまう。


 主人公は牢獄のなかで、面会に来る彼女と結婚の誓いを交わす。刑務所内の工作機で作った急ごしらえの指輪が、彼女の指に通され、美しくも二人の誓いを証言する。男はこの新しい「家族」とともに暮らすために、同室で出会った男と共謀し、彼女の助力を得て脱獄する。それから先、いくつかの展開を経て、主人公とその家族は国外逃亡を謀るため、「虹」の架かる遥かな地へと船を漕ぎ出してゆく。


 この作品全体を通して、映し出される映像や主人公達がなす行動にはドライな質感が際立っている。耐えがたい残酷な事件が生起しても、主人公達は、想定される心理的葛藤を経ることなく、その状況と帰結を最初から予期していたかのように安々と受け入れてゆく。生じるべき苦悩や、狼狽、抵抗、あるいは愛の喜びさえも、ショートカットされたように短絡している。しかし、そのドライさ、クールさは単に物語に添えられた付加物のようなものではない。このドライさ、クールさは、主人公や登場人物たちが飲み込んでいる「絶望」(この言葉を多用したくはないが、カウリスマキの作品を形容するのにこれ以上の適切な言葉は見当たらない)のあまりの底深さに裏打ちされたものなのだ。主人公達は自らが置かれている社会的現実の総体をコンフリクトなく飲み込み、その運命の車軸に抗うことなく従っている。それは抵抗への意志が欠如しているというよりは、そうした意志が可能であることや、あるいは可能であると思い為すことが事の始めから禁じられているかのようだ。そうした抵抗への可能性が不可能性によって囲繞されている地平にまで、主人公達を追い詰める社会的現実はその根を張り渡しているのだ。絶望は想像力を蝕む。それは、可能性を忘却させ、その忘却さえも忘却させてしまう。おそらく、真に恐怖すべきは想像力を失った社会、「他でありえた」という可塑性を失って硬直化した社会なのだろう。


最後の場面は象徴している、この作品でカウリスマキが描き出したものを。それは余りに暗き絶望の深淵ではない。この深淵を背景とし、それを静かになしくずしつつ、なお生を脈打たせるような、人と人との間に張り渡され、小さき輪をかたちづくる、そうした「真夜中の虹」の仄明るさ。これではなかろうか。



私淑


 本日傍聴したある学会の終了後、数年来、密かに私淑し続けてきた哲学者とお話をさせて頂く幸運を得た。先生の著作から未知の領野や研究の指針、哲学のスタイルについて多くを学んできただけに、その姿を認めたときはざわざわと心に波打つ思いだった。先生の後ろをストーカーのように追い、他の人との話が途切れたところで好機とばかりに声を掛ける。セラーズやジョンソンについての短い会話だったが、励ましの言葉を頂くという光栄に預かることができた。高い会費を払って懇親会に出た甲斐があったというものである。しかし、学会というものは学生に対してアンフレンドリーに過ぎる。懇親会の費用は言うまでもないが、学会誌も余りに高い。今年度の号は粒揃いな内容なので欲しかったんだが……。


 さて、先生や他の学生との会話を媒介して、セラーズについての探求すべき課題のひとつが整理できた(僕はセラーズ研究者ではないのだが、最近セラーズについてばかり考えている気がする)。

 セラーズは観察対象と理論的存在者との間に実質的な区別を認めない。両者の間にあるのは、その各々の言説間における方法論的区別のみである。したがって、存在論的レベルで観察対象と理論的存在者との間に境界を設けることはできない。両者は原理的には移行可能なのであり、その移行可能性は当の時代の観察機器や経験的技術に依存的である(例えば、太陽系内の軌道計算において発見的価値を付与された理論的存在者としての冥王星から、装置の発展に伴う観察対象としての冥王星への移行)。こうした意味で、セラーズは「科学的実在論」を採用する。

 また、セラーズは心的志向性にプライオリティを認めず、志向性を彼の先駆である機能的意味論的から捉えることによって、心的概念を言語的志向性の側からメンタルなものへとコミットすることなく説明しようとする。そして、「所与の神話」に対して彼独自の「ジョーンズ神話」を構築することにより、行動主義的言語を少しずつ拡張してゆき、その拡張形へと彼の考える志向性を接木する。こうして、心的概念は間主観的な言語的水準で捉えられることになる。これが彼の「心理学的唯名論」の内実である。

 問題は、この「心理学的唯名論」と「科学実在論」が無矛盾かということである。彼は「顕在的発話行動」と「思考」の対を、観察対象と理論的存在者とのアナロジーで捉える。もし素直に読めば、観察対象と理論的存在者の間に引いた区別が方法論的なものであることにより、「思考」の地位がもつ唯名論的性格は危機にさらされるようにも読める。しかし、彼は思考が「理論的存在者」であるとすることが誤解を招く所作であると述べており、先のアナロジーに制限を課している。しかし、この制限の内実は必ずしも詳らかにはされていない。おそらく、各人の心的状態への特権的アクセスをある程度まで認めるセラーズの立場が、思考が理論的存在者としての地位をもつことに歯止めをかけているのであろう。ここの機序をさらに詳細に理解することがセラーズの理論にとって枢要であると思われる。もう少しでEPMが読み終わる。非常に難解であった。今度はもう少しターミノロジーが成熟した段階であろう、後期の論文へと向かう予定である。読みやすくなっていることを祈念する。

Direct Perception through Language

 R.G.Millikanの“Varieties of Meaning”第9章のレジュメを仕上げたので、HPに掲載しておく。ミリカンは『シリーズ 心の哲学』の翻訳篇に「バイオセマンティックス」という論文の邦訳が掲載されているので知っている方もいるかもしれない。その基本的なスタンスは自然主義的な記号論者である。友人の談によれば、彼女はセラーズの高弟であるらしい。一万字程度と長いが、興味のある方は一読下さい。


 ちなみに、そこで頻出する自然的記号とは、記号とそれによって表される対象との間に事実上のつながりが存在し、その対象が実在している場合の記号であり、原理的に不可謬である。志向的記号とは真偽や正誤のある記号であり、何らかの目的論的機能を備えているとされる。ある記号が志向的記号であるためには、それが信頼可能なメカニズムに基づいた生産システムによって産み出され、さらには行動を誘導するといった消費システムによって利用される必要がある。この両システムの間には協働関係が存在しており、消費されることがなければそれは志向的記号ではありえない。さらには、志向的記号はそれが正常に働く場合には対象の実在を伴い、従って同時に自然的記号でもある。


 この章は「言語を通じた直接知覚」という一見逆説的な表題を備えている。この逆説的な外見をミリカンがどう説得的に解消しているのかがこの章の眼目だろう。豊富な事例の各々も議論を呼ぶ興味深いものである。

「理由の空間」の理由

一昨日出席したある研究会での発表を聴いている時に、W.Sellarsが内在主義的立場をとる理由についての着想が浮かんだので記しておく。


Sellarsは、ある非推論的な観察報告が経験的「知識」として認められるための要件を、報告者自らが、その報告に関する信念を他の諸信念との推論的関係に置くことによって、当該の信念が信頼可能であることの理由を与えることが可能でなければならないという点に求める。つまり、信念の信頼性に対する正当化能力を報告者自身が有していることが必要だと考えるのである。したがって、報告者が自身の信念を適切な仕方で「理由の空間」のなかに位置付けることが、当該の報告を「知識」へと資格付けるのである。Sellarsは非推論的な知識を認めるが、そうした知識は無前提的であってはならず、当該の報告内容に関連する他の多くの概念の習得を前提とするのである。以上のように考えることによって、Sellarsは自身の立場を内在主義へとコミットさせている。


それに対し、Sellarsの主論文である『経験主義と心の哲学』にStudy Guideを書いているR.Brandomは、Sellarsの主張を外在主義へと読み替えようと試みる。Brandomによれば、Sellarsの「ある報告が知識であるためには、報告者自らによる推論的正当化が必要である」という内在主義的主張には十分な理由はなく、他者が当該の報告者の信念形成プロセスの信頼性を認めることによって、その報告者に知識を帰属することを妨げる理由はないとする。つまり、他者による報告者への「理由の空間」の帰属が可能だとされるのである。Brandomは、Sellarsの主張は行き過ぎであり、それを外在主義へと転換することが必要だと暗に説いているように思われる。


では、なぜSellarsは内在主義的な立場を擁護するのだろうか。Sellars自身はこの疑問に対し直接の応答を用意してはいないように思われる。


Sellarsによれば、「理由の空間」における推論関係は概念の次元で行われる。「理由の空間」を構成することが可能であるということは、概念を所有しているということをその要件とするのである。内在主義的な立場からすれば、動物やある発達段階以前(それがいつかを特定する条件を課すことができるかどうかはそれ自体興味深い問題である)の幼児は自らの信念に対する推論的正当化を自身の手によって与えることができないのであるから、理由の空間を構成することが不可能であり、したがって概念を未習得であるとされるだろう。そして、概念が「一般性制約」(Evans)を満たすものに限られるとすれば、動物や幼児に概念を認めない立場は、直観的にだけではなく、理論的にも妥当であると考えられる。


しかし、もし外在主義的な立場をとったならば、「理由の空間」は他者によって帰属可能であるとされる。この場合、動物や幼児にまで「理由の空間」の帰属を拡張することは、何らかの適切な制約条件を与えない限り容認されるだろう。したがって、動物や幼児に概念を帰属することになるが、これは概念観自体を刷新するのでもない限り擁護の極めて困難な主張であろう(僕自身の立場としてはこうした概念観の刷新は可能であると考えるが、いまだ明確なことは言えない)。こうした批判を回避するためには、「理由の空間」の帰属範囲に対する制約条件を、外在主義者は適切な仕方で与えることができなければならない。おそらく、外在主義者ならばこの制約条件を「信頼可能な信念形成プロセスの帰属」に求めるだろう。しかし、Armstrongの「温度計的観点」に対する批判を考慮すれば、たんなる信念形成プロセスの帰属は知識についての重要な直観を外してしまうと思われる。なぜなら、外在主義を額面通りに受け取るならば、信念形成プロセスの信頼性を外在的に担保しながらも、信念への正当化を無自覚的なままに反射的・自動的に行うような報告者を想像することは可能であるが、こうした報告者が知識を有していると見なすことは我々の直観に著しく反するからである。外在主義者に対するこの再批判を回避するためには、「理由の空間」の帰属を可能であるとする要件を、「信頼可能な信念形成プロセス」を認めることだけにではなく、推論的正当化可能性の承認にも与えるという道があろう。しかし、この道は内在主義へと通じる道であり、この道を進むならば、結局外在主義は内在主義と見分けがつかなくなるだろう。


Sellarsによる内在主義の擁護にこうした背景が存在するとするならば、それは自然主義者に対する批判としても機能していることに注意すべきである。自然法則と「理由の空間」の間の区別を撤廃することは、たとえそれらを両極として認めるとしても、自然の連続性を承認することへ繋がる。外在主義はその制約条件のとり方次第で、自然主義と容易に結託する。Sellars流の内在主義は、概念了解の帰属範囲を内在的な「理由の空間」の内部に限定することによって、自然のなかに鋭い非連続性を導入するのである。


 なお考えるべき問題として、「理由の空間」と「概念の次元」の結びつきの緊密性をどのように捉えるか、「正当化」が知識の必要条件であるとする見方に対する批判にどう応えるか、という問いが提起されよう。Sellarsについては、彼の論述の難解さも手伝ってか、今現在のところ日本の研究水準は決して高いとは言えない。おそらく再考すべき重要な素材がまだまだ眠っていると思うのだが。

バベル的回路と遊び猫

 カフカの短編のひとつに『町の紋章』という題名をもつ、優れた一編がある。短いので要約も何もないが、こういう内容である。人々はバベルの塔の建造という大事業のために結集され、周囲にはそのために必要とされる様々な職務上・生活上のネットワークが整えられる。この天まで届く塔を建設するという並ぶものなき至高の思想は、人間が存続する限り涸れることのない願望と情熱の源泉である。人類の知識は日増しに向上し、建築技術は長足の進歩を遂げている。塔の建造は順調に進んでゆくはずだ。しかし、この進歩のゆえに人々は自縄自縛に陥ってゆく。なぜなら、人々はこう考えるからだ。「現在では一年を要する仕事も百年後には半年ですみ、しかもよりよい、より丈夫なものが造られるに相違ない。とすると、なぜ今、このなけなしの能力を総動員して建造に努めなくてはならないのか? 塔を一世代のうちに建てられる見込みがあるのなら話は別である。だが、そんなことはこんりんざい、期待できない。むしろ大いに予測がつくのだが、次の世代は進歩した分だけ先の世代の仕事が気に入らず、それを取り壊して新しく始めないとも限らない。そう思うと意欲が萎えた」。こうして、人々はバベルの塔の建造を永遠に日延べし、むしろ塔建造に従事する者のための町造りに勤しんでゆく。こうして世代は次々下がってゆき、人々は塔建造の無意味さとコミュニティの親密さの間で板挟みとなって動けなくなり、いつか紋章に描かれた伝説の巨大な拳が町を破壊してくれることを虚しく願い続ける。


 時に、「ものを書く(長文をものす)」ということにも、この寓話と同じような回路が潜んでいる。読めば読むほど知識量と分析能力は向上するだろう。読書の研鑚を重ねた後日の眼からすれば、今現在書くものは味読に耐えない未熟さを呈するに相違ない。ならば、今ここで何かを長々と書くことにどれほどの意味があろうか。それよりは読書に勤しんだ方が賢明ではないか。こうして人は塔を建造せずに町を拡げてゆくことになる。その結果、ついに塔は建造に着手されることもなく、放擲されたまま叶えられることのない永遠の責務となる。まさにカフカ的である(このバベル的回路は他にも様々な活動の断層に姿を表すのではないかと推察する)。


 しばしば僕自身、こうしたバベル的回路に陥りそうになることがある。ブログの更新が停滞しているのも若干はこうした事情による(もとよりブログはバベルの塔と比肩すべくもないが)。ものを書いていると、現在の論理的能力の未熟さに我慢ならなくなってくる時がある。そして、読書活動を優先させてしまう。しかし、「バベルの塔」が「完成された体系」の暗喩だとすれば、造るべきは塔ではない。「ノイラートの船」の暗喩が示すように、すでに大洋に船出しているということを自覚し、手持ちの材料をやりくりしながら持続的な改訂に努めるより他はない。フッサールのように、すべての著作が、次の著作で自己否定されてゆく「序文」に終わろうとも、である(あの分量でも『イデーン』は序文なのだ)。


 一休宗純も言うように、「心を繋ぎ猫のように」するのではなく「遊び猫」のようにし、完璧を目指すのではなく暫定を旨にし、「書くこと」と「読むこと」の間に均衡の取れた渡りをつけ、相互補強的な回路を丹念に構築してゆくべきことを改めて確認しておく。


さて、いまいち自身のなかで着床点の定まらなかったこのブログは、今後、生活雑記ではなく、主に研究の備忘録や雑記と化してゆくことをあらかじめお詫びしておく。第一に、現在、僕自身の関心の大半がそこへと費やされているからである(従って耳目を集めるような他の話題には乏しいのである)。第二に、私的な日記を公開するという「ミーイズム」には加担しかねるからである(生活の地平が考察へと連続しているような日記ならば大歓迎だが)。少ない読者をさらに少なくするだろうが、構わず淡々と書き連ねてゆきたい。

小旅行雑記&さよならカローラ


 諸々の用件があって、仙台を中心に連れと小旅行をしてきた。一度実家に戻ってアコードを借り、東京経由で仙台へ。お盆直前の下り方面なので、首都圏を抜けた後はそれほどの混雑もない。


道すがら阿武隈の鍾乳洞に立ち寄る。ここの鍾乳洞は1969年に発見されたもので、8000万年という途方もない年月をかけ、岩盤の崩落と地下水の浸食によって徐々に形成されてきたものだ。もともと石灰岩の採掘場跡から発見されたらしく、てらてらと濡れて光る乳白色の内壁が生き生きとした体内の肉襞を想起させる。多種多様な奇岩がうねりながら次々と眼前に姿を現し、その造形群は連想を誘いつつもつねに連想を越えたところで明滅している。公開されている部分の最奥には高さ30mになるドームが拡がり、その天蓋には朽ち果てて石化した無人都市のような複層空間が今にも落ちかかってきそうな様子で張り付いている。しばらく、天蓋を眺めながら、想像を収縮しその都市を回遊させてみる。


 重要な自然遺産なので当然管理人が駐在しているのだが、この空間に日々何時間も腰をおろしている彼の胸にはどのような想念が到来するのだろうか。そんなことを考えながら、確かノヴァーリスの『青い花』に描かれた採掘場の話を想い出していた。天の星々と呼応する地の星々。惑星の内的器官。


 ふもとを見下ろしながらも、停止したまま動かない、寂れた観覧車が印象的だった。

旅1


仙台では連れの親類や友人たちに逢い、久々のメディアテークや霧の松島を訪れ、数日間を過ごす。帰り際に中禅寺湖に一泊しつつ、日光と尾瀬を観光する。その技巧の卓抜さには舌を巻くが、東照宮の華美な装飾性(特に色彩感)は僕の趣味には合わないと感じる。そもそも天下平定のためとはいえ、武力を行使し多くの殺戮を重ねた将軍を「神」として祀るという歴史の因果には違和を覚える。歴史的条件として「戦乱」を所与とするからには、武力による平定以外の方法はリアリティを欠くとはいえ、その死を称え崇拝の対象へと昇華するという構図は容易には承服しがたい。とはいえ、それほど歴史的経緯に詳しい訳ではないので速断は禁物だろう。いつか関連する書籍を紐解いてみたい。


 尾瀬ではしとしとと降り続く雨に濡れながら、尾瀬ヶ原の入り口まで散策してきた。尾瀬ヶ原は今までに見た記憶のない種の風景で、不思議と懐中に冷ややかさを感じた。ここに生える白樺の木が故郷の信州と異なり、微妙に屈曲しているのが眼に止まった。吹き抜ける風の影響だろう。帰路で小雨は土砂降りの雨に変化し、山道は小川のように泥水を吐き出していた。その中、半身をびしょ濡れにしながら歩いてきた。今回は時間が足りず途中で引き返さざるをえなかったが、再び奥の方まで出向いてみたい。



 綺麗な漆黒の蝶が優雅に羽を休めていた。

旅2


 群馬で連れと別れ、僕はそのまま実家へ向かう。


実家では、僕が札幌時代に愛車とし、手放してからは実家に置いていたカローラがついに廃車になるということで、最期のドライブで別れの時を過ごしてきた。このカローラは高校の時に急死した母方の祖父から遺品として受け継いだものだ。(服以外の)特定のモノへの執着が比較的薄い僕でも、さすがにこの車には思い入れと愛着が強い。思えばこのカローラで、学部生の頃は数々の友人を乗せ、数万キロを走り、いくつもの県境を抜けてきた。何度か死地を踏み越えそうになったこともあった。この文章を読んでいる人のなかにも乗り慣れている方がいるだろう。最期には至る所にガタがきていた。助手席側のパワーウィンドウは上がらなくなり、常に全開状態のまま、吹きさらし。トランクはもう二度と閉じることがなく、走行中に振動があるとおもむろに開き始める。ハンドルを最後まで廻すと、猿の哄笑のような音が前輪あたりから駆け上ってくる。購入から15年というところだから、乗用車としては天寿をまっとうしたと言ってもいいだろう。今ごろは業者に引き取られ、プレスされるのを待っている頃だ。さようならカローラよ。

Rei Harakami Live

アップルストア銀座店では今月、毎日のように(主にラップトップ世代の?)アーティストを招いてミュージックイベントを開催している。その一環として、5日に日本のエレクトロニカシーンをリードする存在であるRei Harakamiさんを迎え無料でライブを行うとのことで、喜び勇んで駆けつけてきた。スタートの40分前くらいにアップルストアに到着したのだが、すでに店の前には長蛇の列ができ始めていた。会場は座席が84席で、残りの人々は立ち見だったが、結局総計で約200人ほどの聴衆がHarakami詣でに集っていた。

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最初にライブを行ったのはSL@yRe The Feminine Stoolξ。日本神経学会専門医でありピアニストでもある坂本昌己と、プログラマーでありギタリストでもあるKawatoryによるオーディオコラージュインタープレイデュオ。音楽の膨大なアーカイブを背景に、複数の歴史性の軸へ自在にアクセスしながら、それらをスライドし掛け合わせていくような構成は緻密かつ巧妙で、音楽との新たな対面の仕方を感じさせるものだった。今後その手腕がどのように展開され開花してゆくのか、非常に楽しみだ。

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そしてHarakamiさんの登場。会場を和ませるトークの後、「行ってきます!」という声と同時に世界は流体的な共鳴空間によって満たされる。極大と極小の間を緩やかに駆け抜け、彩度の異なる明るみを風となって吹き渡り、どんな境界も許さず水のように浸透してゆく。そうした音の重奏する連なりが、皮膚下の組織のひとつひとつを包み込んでゆく。細胞は彼の清浄なまでに澄み切った音楽を享受し、呼び求め、宥め合い、シンプルな組成へと還元され組み替えられてゆく。治癒的でありながら同時に覚醒的であるような音楽。

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 三曲しか聴くことができなかったが、彼の存在の重要性を再認識するライブだった。Harakamiさんお疲れ様、そしてぎっくり腰が早く治るといいですね。また年内には上京するとのことで、今からその時が待ち焦がれる。


ちなみに、同店では26日(金)にSketch ShowTowa Tei、そして小山田圭吾という大物三組を迎えてライブが行われる。詳細な情報はこちら。


http://www.apple.com/jp/retail/ginza/week/20050821.html