ダイアログ・イン・ザ・ダーク2007 | autochromatics differencia

ダイアログ・イン・ザ・ダーク2007

(改行が反映されないため非常に読みづらくなっています。申し訳ありません。お読みの方はWordへコピペなどで対応して下さい)

現在、赤坂の旧赤坂小学校で開催されている『ダイアログ・イン・ザ・ダーク(Dialog in the Dark)』に参加してきた。DIDは、「日常生活の様々な環境を織り込んだ真っ暗な空間を、聴覚や触覚など視覚以外の感覚を使って体験する、ワークショップ形式の展覧会」であり、1989年にドイツで生まれ、日本でも1999年以降繰り返し開かれている。私は今回が初参加となる。以下、感じたことをつらつらと書き留めておきたい。

参加者は最大8名のグループとなり、「アテンド」と呼ばれる全盲のガイドの方に導かれつつ、視覚を奪われた状態で完全な漆黒の世界のなかを冒険する。私が参加した回は6名のグループで(2名欠席)、私たちを含め3組の男女のカップルによって構成されていた。まずは入り口の扉を抜けて薄暗い部屋に通され、そこでアテンドの方を紹介される。ここからは小学生に戻って放課後の校内を冒険するということで、私たちも子供時代のあだ名で自己紹介を行う。簡単な説明と注意を聞いた後、照明が完全に落とされ、いよいよ出発となる。

完全な暗闇のなかを、顔の前に手をかざしながら、アテンドの声を頼りに、最初は摺り足で怖々と進んでゆく。ルートは幾つかの小部屋(体育館、音楽室、美術室、用務員室の縮小版)と通路(リノリウム、カーペット、板張り、木材チップ、落ち葉など異なる材質で作られた廊下に加え、小さな橋や階段や線路)に分かれており、そのなかを手や足や白杖を使って環境内の情報をピックアップしつつ、互いに声を掛け合い、自らが得た情報を他の参加者と共有しながら探索を行う。途中、簡単な遊戯や休憩などを経て、約一時間で探検は終わる。集中して時間の濃度が上がっているためか、一時間とは思えないほど色々な体験を行ったという印象が残る。と同時に、「もっと長くその場に残っていたい」という暗闇への愛着も強く感じる。

体験中は視覚を完全に奪われているわけだが、それでもやはり探査中は「視覚的想像」という視覚から借りてきた能力を駆使しながら進まざるをえなかった。触覚と聴覚を使って得た情報を想像のなかで視覚イメージとして配置し、そうして作られた想像空間を実空間へと投射しながら、探索のなかで両者の差異を微調整しつつ経路を辿る。壁や床が自らしゃべってくれるわけではないので、私たちは手足や白杖を使って壁や床に「語らせ」ながら、そうした語りをさらに他の参加者たちへと伝達し、互いの地図作成を相互に補完し合う。それはさながら何本もの触手を伸ばしながら進んでゆく一体のアメーバのようである。

この環境では、「介助する健常者」と「介助される障害者」という普段は自明視している非対称的な関係が逆転し、私たち視覚保有者の側が逆にアテンドの方にガイドされる立場となる(アテンドの方の情報収集能力は非常に正確かつ迅速で、暗視スコープを付けた別の人がガイドしているのではないかと思わせるような場面も多々あった)。こうした体験を経ることで、「障害」という概念は環境の関数にすぎないのだということが強く意識化される。環境が変化すれば障害という概念の適用範囲も変化する。だからこそ、私たちは環境の在り方がある特定の人々に対して「障害者」であることを強いるものとなってはいないかを常にチェックし、そうした環境の在り方をどのような形で変化させてゆくべきかを問う必要がある。

また、DIDは健常者と障害者の間にある関係を逆転させるだけではなく、参加者個々人の間にある能力の違いも均等化させる。暗闇のなかでの共同作業において課されるタスクは「自分の手の届く範囲内で得た情報を他者へと伝える」という極めてシンプルなものであり、それゆえに、各人は「情報を産出し発信する」という点で平等な能力をもった個人として共同作業に従事できる(普段は声を出すことに対して抵抗を感じる人でも、暗闇のなかでは不思議とそうした抵抗感は薄れてゆくため、いつの間にか情報発信の一端を担うことができるようになっている)。DIDは企業の新人研修に多く活用されていると聞くが、それはこうした能力の均等化を通じて、各人が対等な立場で自主性を発揮し、協調の精神や参加の重要性を学ぶことができる環境を実現できるからだろう。

DIDを体験した多くの人が「普段いかに視覚に依存して生活しているかを実感できた」という感想をもつようだ。だが、DIDは逆に視覚がもつ優位性を幾つかの点で浮き彫りにしてもいる。

触覚と聴覚から情報を得るためには、知覚者の側あるいは世界の側のいずれかにおいて何らかの運動が生じている必要がある。私たちが触覚を通じて情報を得るためには、知覚者が対象に触れるか、あるいは、対象が私たちに触れてくるか、いずれかが必要である。また聴覚の場合は、対象が何らかの運動によって音を発しているか、あるいは、知覚者が対象に働きかけて何らかの音を出させるか、いずれかが必要である。他方、視覚の場合には、適切な照明状況さえ整っていれば、静止した知覚者と静止した対象との間で遠隔的に情報のやりとりを行うことができるため、この点で視覚は他の感覚器官に比べて優位に置かれている。正確に言えば、それが成立するために何らかの運動が必要だという点では、視覚も他の感覚器官と変わらない。よく知られているように、視覚が成立するためには「サッカード運動」や「固視微動」といった眼球のマイクロな運動が必要であり、人為的にそうした運動を停止させると視覚に現われている対象は消失してしまう。視覚はそれを実現するために要求される運動がもっとも少ないという点において、他の感覚器官とは量的に異なる優位性をもつ。

だが、DIDが視覚の優位性を浮き彫りにしているのはこの点においてだけではない。それはまた、視覚が運動との協調性においていかに重要な地位を占めているかという点も浮き彫りにする。暗闇に入ってまず気づくのは、私たちが視覚と同時に通常の滑らかな運動機能をも奪われてしまうということである。私たちの視覚は運動や環境と相互に精妙に結びつきながら進化してきており、それゆえ、現今の複雑な環境下で身体がもつ運動機能を十全に発揮するためには視覚が必要不可欠なのである(目を閉じてキャッチボールをする場面を想像して欲しい)。もちろん、聴覚を奪われた場合も運動機能は大きく阻害されるが、その変化の程度は視覚を奪われた場合に比べると少ない。視覚が奪われると、白杖なしでは通常の動歩行(重心を接地している足の裏の外へと投げだしながら進む歩行)を滑らかに行うのは困難となる。階段を降りる場合には足を置く先が確認できないので重心を残しながらの移動となり、通常に比べて格段に進行速度は遅くなる。アテンドの方の誘導や他の参加者との共同探査のおかげでおおむね不安なく動くことはできるが、これが一人だけであればほとんど蝸牛のようにしか進めないだろう。視覚は複雑な環境内を自律的に運動するために欠くことのできない器官なのである。(だとすれば、目の不自由な方が環境内を今よりも自由に動き回れるようにするためには、環境がもつ複雑性を削減し、事前に得られる情報によって予測可能な範囲を拡大する必要がある。必要な規約を設けたり、情報を音として環境内に設置したり、講ずべき手段は様々だろう)。

その他、DIDに関しては様々な観点から考察可能だがひとまずこの辺にしておきたい。今回の開催期間中はすでに完全に満席となっているが、またどこかで開催されるだろうし、常設形式にしようという動きもあるようだ。その際には未体験の皆さんも是非。