ディプロの記事へのコメント | autochromatics differencia

ディプロの記事へのコメント

昨晩ある友人から送られたメールに答える形で、「ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子メール版」収載のフランソワ・ジュリアン氏(パリ第七大学教授)による「西洋思想によって照射された中国思想」という寄稿に対するコメントを書いた。折角なのでここにも掲載しておきたい。

元の論文はこちら。

http://www.diplo.jp/articles06/0610-3.html

 フランソワ・ジュリアン氏の論考、興味深く読みました。前半と後半の論調のずれや、その他疑問に思う箇所が多々ありますが、細かい論点は除いて、主要と思われる点について愚考を開陳することで返信とさせて下さい。元より中国の内情に遠いため、具体性に欠けた先刻承知の論点ばかりかもしれませんが、よろしくご笑覧下さい。

 ジュリアン氏は、中国型思考の特徴として自ら規定する「包摂性」を、あらゆる見解を自分の見解のうちに包摂し、それらの間に対立関係を立てることなく、様々な立場の間を融通無碍に移行することのできる「中庸」であると規定しています。しかし、西洋的思考との複眼視による「外部光学」を企てる氏の視点からは、西洋的思考と中国的思考とをある種の対立・対比関係として捉えようとする根深い習慣(必ずしも意図的ではないでしょうが)が伺えます。ここで、中庸が「包摂」しうる範囲をどのように捉えるかによって、二通りの解釈が成り立ちます。

(1)中庸は文字通り「あらゆる見解」を包摂できる。

 このように「包摂性」を解釈すれば、ジュリアン氏の論点には矛盾が含まれることになります。この解釈のもとでは、もし事態を中国的思考様式の側から捉えるならば、西洋的思考が自らと対立するオルタナティブを構成すると考えることはできないはずです。西洋的思考は「あらゆる見解」のひとつとして包摂され、したがって、氏が指摘する西洋文化の侵入・流入による「古傷」も(論理的な可能性として)生じえなかったはずです。しかし、中国は実際にその時点で何らかの心理的負債を受けたようにみえますし、現在その「古傷」に対する何らかの態度決定が迫られているということも確からしいことだと思います。だとすれば、この解釈を受け入れたまま、その古傷の要因を異なる思考様式への屈服にあると考えることはできないのではないでしょうか。

(2)中庸は「現実的」思考に基づく「あらゆる見解」を包摂できる。

中庸において包摂しうる可能な立場は「現実的」思考の産物に限られると考えるならば、「理念的」思考を特徴とする西洋的思考はその「外部」に位置づけられることになるでしょう。しかし、たとえそれが「理念性」を特徴とするとしても、西洋的思考を包摂から排除される特権的なものと考えるべき理由は何なのでしょうか。氏が指摘するように、「中国人は二重文化性に非常にうまく適応して」いるのだとすれば、たとえ中国人自身がそれらを(中華文明への誇りを顕示するために)対立的に捉えていたとしても、それは西洋的思考が中庸へと包摂されうる証拠なのではないでしょうか。

これら二つの解釈ともジュリアン氏の他の見解との不整合という難点を含んでいると思います。ジュリアン氏は(2)の解釈をとっているのでしょうが、その論拠は希薄であると思います。「包摂性」という概念に対するより洗練された概念規定なしに、それを西洋的な「超越性」や「理念性」と対比させることはできないのではないでしょうか。

西洋的な「モデル的思考」についても一言。ジュリアン氏は区別していませんが、科学的思考におけるモデルの働きと政治的思考におけるモデルの働きとは区別されるべきでしょう。一方で、科学的思考におけるモデルはそれ自体が現実へとフィットするように仕立て上げられるべきものであるのに対し、政治的思考におけるモデルは逆に現実がそれへとフィットするように導かれるべきものです。もちろん、科学においては実験によって検出される現象それ自体が仮説としてのモデルの存在を前提するわけですし、政治的思考においても反省的均衡によるモデルの調整が生じうるわけですから、このような明確な対照が現実に妥当するわけではありませんが、「適合方向」の相違は確かに認められると思います。そして、この違いが政治的思考を「真理」モデルで考えることの問題点を部分的に構成しているのではないかと思います。それはすなわち、科学的モデルの「普遍性」に比すべき、政治的モデルの「普遍性」は存在するのか、という点にあります。

理念的な思考方法によってモデルを導く場合、そのモデルの「普遍妥当性」が実際には歴史的・局所的条件を前提している可能性は大いにありうるのではないでしょうか。そして、導かれたモデルを他の国や地域へと適用しようとする場合、局所的な条件の違いがモデルの妥当性にとって本質的な作用を及ぼす可能性も大いにありうるのではないでしょうか。だとすれば、西洋的な科学的思考における輝かしい成功をもって、同様の思考様式による政治的思考に信頼性が担保されるわけでは必ずしもないと思います。近年におけるテロリズムや民族紛争の頻発のひとつの素因をなしているのが、西洋的な政治・経済モデルを外から強制しようとした(あるいはしようとしている)ことにあるとすれば、西洋的思考様式に対する素朴な称揚は控えるべきだと思います。

無論、ジュリアン氏の狙いは西洋的思考様式を称揚することにあるのではなく、中国の現実の政治にとって理念的な思考様式が必ずしも定着しておらず、それが中国の政治的開化にとって妨げとなっているという指摘を行なうことにあります。この辺りの論点の評価に関しては、中国の歴史や内情に通じていない私の手にはいささか余ります。しかし、中国が自らの内部から別様の政治形態を思考する能力を育ててゆく道もありうるだろうと思います。そのためには、単に抽象的に「理念性」の必要を唱えるだけではなく、どのような理念性が中国の思想風土から育ち得るかを思考すべきだと思います。これは日本についても同様でしょう。