クレジオ特集 | autochromatics differencia

クレジオ特集

地上の夢
ル・クレジオ―地上の夢

私の最も畏敬する小説家ル・クレジオの来日を記念した、現代詩手帖特集版『ル・クレジオ 地上の夢』が出版された。彼の新作邦訳やエッセイ、インタビュー、貴重な対談(吉増剛造と今福龍太、寺山修司と豊崎光一)、研究家諸氏による諸論考などが収められている。クレジオに関心のある向きには必読でしょう。

彼の『物質的恍惚』を二十歳頃に初めて読んだ時、自分が人間であることを忘却させるほどの異質な感覚群に幾度も幾度も襲われたことを覚えている。それは、彼の文体が通常の物語が成立する「人格」の語られる尺度を遥かに通り越しているからである。彼の文体は、「私」という自意識へと統一されるのではなく、逆にそれが崩壊するほどまで自意識を先鋭化することで、自他の間にある境界を溶解させる。彼はそれによって、人称的なレベルにおける世界の存立様態を歪曲させ、分裂させ、動乱させる。時間感覚や距離感覚は、極小へも、極大へも、自在に往還してゆく。彼の文体のなかでは、視点が極小化され、蟻にぴったり同一化したかと思うと、次の瞬間には視点が極大化され、宇宙の星々へと同一化してしまっている。人間が「合理的な人間」として生きるままでは踏み越えることができない様々な制約を、彼の文体はいともたやすく踏み越えてゆく。それは単に放埓な夢想に近づくということではない。逆説的ながら、この現実から離れれば離れるほど、現実そのものが根源的な相において作家の筆へと肉薄してくるのである。

 西洋世界が「天使」という肉体をもたない純粋な精神体を発明したのは、人間を映す「鏡」を手に入れたかったからだという話を聞いたことがある。われわれが全身像をよく見えるように鏡に映すためには、鏡そのものはわれわれよりも大きくなくてはならない。不完全な人間を映し出すためには、完全な存在である天使が必要だったのである。換言すれば、現実は、現実からの視点によっては理解することができない。現実を理解するためには、現実を越えた鏡が必要なのである。

 クレジオの初期作品には、どこかこの「天使」の役割に似たところがある。ただし、それはいわば「逆さ天使」なのだろう。そして、クレジオという逆さ天使は余りにも度を越して大きすぎるため、現実の根源へ向かうには適しているが、現実の秩序を逆照射するにはまったく向いていない。われわれは巨大な凹面鏡に映されるように、奇妙に拡大され歪められた仕方で映し出されるわれわれをクレジオの文体のなかに発見する。『物質的恍惚』では、視線が極大へも極小へも自在に滑空してゆくのに対し、焦点のあった尺度、人格が成立する現実の尺度だけはまったく登場しない。すべては等価なものとして併置され、根源へと向かう文体の運動のなかに溶解してゆくのである。クレジオの初期作品に真っ当な「他者」が登場しないのは、それが根源へ向かう運動の犠牲になっているからである。あの頃のクレジオには、恐らくそうであるより他に語り様はなかったのだろうし、それがクレジオの最大の魅力でもあるのだが。

 時々、あんな作品を書いた彼がまだこの地上に生き、いまだ筆を走らせているということが信じがたいことに思えてくるときがある。彼の存在そのものが「地上の夢」であるという気がしてくるのだ。