子守唄に導かれ | autochromatics differencia

子守唄に導かれ

今月からYahoo!動画にて、「ロシアアニメ傑作選」が公開されているようだ。アニメーション映画界において〈詩聖〉として並ぶものなき孤高の地位を確立しているユーリ・ノルシュテイン氏の作品も無料で観覧できる(私は彼の作品を映画館でも観たし、DVDも持っている)。私が深い感銘を受けた作品「話の話」も含まれているので、いまだ見たことのない方は是非。

http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00162/v00363/

 ノルシュテインの作品を形容するならば、「神は細部に宿る」という言葉こそふさわしい。彼によって描きだされた事象は、それが人物の仕草であれ自然の現象であれ、高度な凝集性をもち、内部から溢れんばかりの輝きを放ち始める。

ミース・ファン・デル・ローエがどういった意味を「神は細部に宿る」という言葉に込めて使用したのかは知らないが、「神」とは「全体的調和を司るもの」の謂いであろう。だが、ノルシュテインが描き出す「全体的調和」とは、いわば初めからそこにあるもの、われわれがそこに包まれているもの、外側から与えられるものではない。ゴーゴリの『外套』の主人公である小役人アカーキイ・アカーキエウィッチのように、誰からも賞賛されずとも、ひとつの仕事をたゆまぬ継続のなかに磨き込んでゆくことで現われでてくる「調和」である。それを「誇り」と言い換えてもいいが、それは他人に顕示し自慢するという「誇り」ではなく、自らのうちに秘め、それを核として人生が組織されてゆくところの「誇り」である。

彼が描き出す線描は、それが描き落とされたその瞬間からすでに年月の刻印を受け、いわば古びているかのようだ。それは、ノルシュテインの生全体をその線描がすでに通過してきているからである。山脈に舞い降りた雪が伏流水となって時に洗われ、磨かれ、やがてふくよかな味わいをもって湧き上がるように、それは古びているがゆえに豊かであり、すべてを新しく始めさせる力をもつのである。