ねじまき猫 | autochromatics differencia

ねじまき猫

去年の夏の初めに、私が大学に入る前から実家で飼っていた愛猫チョロリン(私の名誉のために言っておくが、命名したのは父親である、♂)が交通事故で亡くなってしまった。享年八歳であった。実家は国道に面しているため、歴代の飼い猫たちも何匹か轢かれて亡くなっている。飼い猫たちも普段は国道を渡るようなことはしないのだが、発情期になるとパートナーを探すために危険な冒険に出掛け、その際に命を落としてしまうことが多い(猫は迫ってくる車を見ると条件反射で固まってしまう)。チョロは温厚な性格の猫(去勢済み)なので大丈夫だと予断していたら、悲しいことにあれらの猫たちと同じ末路を辿ってしまった。

チョロは息子たちがそれぞれ巣立っていった後、両親の愛情を一身に浴び、まるで実の孫のような扱いを受けながら育った。まさに猫可愛がりといった感じだった。チョロに話し掛けるときには、両親の声は二オクターブくらい上がっていた。子供の出ていった家庭では、それまで子供を介して成立していた両親の関係性は、それぞれの精神的交流の様態を含め新たな再構築を迫られる。それは「両親」として培ってきた関係性のコードを「夫婦」としてコードし直す過程でもある。その過程で軋轢が表面化して崩壊へと導かれるケースも多々あるようだが、我が家の場合、間にチョロを介することで、目立った軋轢もなく再構築できたのだと思う。そういった意味で、チョロは両親の間のねじを巻く役目を買っていたのかもしれない。ねじまき鳥ならぬ、ねじまき猫である。そんな境遇だったため、チョロは歴代の猫たちの誰よりもその死を悼まれた猫となった。無類の猫好きである私も、実家に帰るたびに大切にしていたので、訃報に触れたときには悲しさも一塩だった。

そんな我が実家に新しい子猫がやってきたという。チョロリンのことが忘れられないのだろう。その猫はチョコランと命名されたらしい(ふたたび父親命名)。写真を見ると、つり目気味の可愛い奴である。まだ環境の変化に馴染んでいないせいか、緊張で少し身をこわばらせているようだ。早く逢いに行きたい。

チョコ