透明人間考 | autochromatics differencia

透明人間考

透明人間は窃視症者の夢である。なぜなら、他人に見られることなく他人を見たいというのが、あるいは「見られる自己」であることなしに純粋な「見る自己」でありたいというのが、彼らの願望だからである。無論、他人に見られる危険性に快楽を感じる類の窃視症者にとっては、透明人間になることは自身の快楽を半減させるだけである。

しかし、透明人間は本当に窃視症者の欲望を満たしてくれるのだろうか。というのも、透明人間にはモノを見ることはできないように思われるからである。

透明人間はわれわれが視覚を働かせるための条件を欠いている。われわれは、われわれの身体へと届く光を遮るからこそ、モノを見ることができる。われわれが「見る自己」であるのは、われわれの身体(特に網膜などの視覚システム)が物理的遮蔽物として、それ独自の光学的な不透過性を備えている場合に限られる。つまり、われわれが「見る自己」であるためには、同時にわれわれは「見られる自己」でなければならないのである。

しかし、透明人間の身体は透過物であるため、そこへと到達する光はエネルギーの損失や変換を被ることなしに、その身体を通過してしまう。物理的なエネルギーの損失や交換が存在しないのに、「見る」という働きだけが純粋に機能するというのは、物理法則の狂った世界でも想像しない限り不可能である。そして、そのような物理法則の狂った世界が、それでもなお、われわれの世界と緊密に類似しうるほど秩序だった世界でありうるかは疑われてよい。

この点で、透明人間に人間と同じ視覚機能を認める多くのSF物語は失格である(よく勘違いされるが、SFは科学性の装いだけが必要で科学的思考を必要としない御伽噺だというのは誤りである。優れたSFは科学的思考による綿密な考証を経ている必要がある。無論、いくら科学的に厳密であっても、物語的想像力と現実への批判精神とを欠いているならば、ペダンティックの誹りを免れないが)。

かつて、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の『プレデター』という映画があったが、あの映画に登場する宇宙人(プレデター)も、半透明になる装置を駆使して人間を狩る立派な透明人間であった。あの映画はなかなか巧妙に作られていて、上述の透明人間に対する批判を上手くかわしている(製作者側が自覚していたかどうかは不明だが)。なぜなら、プレデターは赤外線センサーによってモノを見ているからである。つまり、人類にとっての可視光線を透過する装置を駆使しながら、赤外線という位相の異なる物理的エネルギーを情報として用いているのである。それゆえ、温度に関する物理的情報としての赤外線を透過しない身体を備えていれば、プレデターは「見る自己」足りうるのである。そして、赤外線は可視光線の波長域を外れているため、人類にはそのようなプレデターの身体を見ることはできないのである。こうして、プレデターは「見られる自己」であることなしに「見る自己」であるという、狩人として絶対的に有利な立場に自らを置きえたのである。もちろん、あの映画でシュワルツェネッガーが試みたように、体温を漏らさないよう泥を全身の皮膚へと塗りたくれば、われわれはプレデターから見えない不可視の透明人間となることができる。したがって、『プレデター』は透明人間と不透明人間との戦いを描いた映画なのではなく、透明人間同士の戦いを描いた映画なのである。

さて、「透明人間は本当に窃視症者の欲望を満たしてくれるのだろうか」という冒頭の問いに戻ろう。いまや次のことが明らかである。透明人間は、それが可視光線によってモノを見るような視覚システムを保持している限り、窃視症者の欲望を叶えるどころか、盲目の存在と成り果てるしかない。もし透明人間が可視光線以外の視覚システムを身に付けたとしても、もはや可視光線で見られた世界を見ることはできない。それゆえ、窃視症者の欲望が、「見られる自己」であることなしに今見えているこの世界を見たい、というものであれば、当人の欲望は原理的に叶えられることはない。窃視症者の夢は「見果てぬ夢」でしかないのである。

付記:

なお、この考察はあくまで「光学的な透明人間」に関してのものであって、「心理学的な透明人間」に関してはこの限りではない(この区別は筆者による)。

「心理学的な透明人間」とは、われわれの視覚が「注意依存的」であるという事実を利用して、当人の「存在感」を何らかの仕方で最小化し、注意の対象となるのを免れることによって、「見えない存在」になる透明人間のことである。その実現方法はほとんど語られないが、色々な物語のなかでこうした心理学的透明人間に出くわすことがある。

「視覚の注意依存性」は次の実験例に顕著である。例えば、バスケットの試合をビデオで観せられ、一方のチームのボール支配数を数えるように言われた被験者の多くは、コート中央を横切り、小躍りをして去っていくゴリラの着ぐるみにまったく気付かない。そして、後でその映像を再び観せられると、ゴリラがあまりにはっきりと映っていることに、そして、そのゴリラに気付かなかったことに驚愕するのである。つまり、ゴリラは心理学的な「透明ゴリラ」となっていたのである。このように、視覚は注意の焦点が置かれている対象以外は粗雑にしか見えておらず、注意の外(=視野の周縁)に何かがあってもほとんど識別されないのである(識別されるときにはすでに注意が移動している)。もし、注意の焦点が周囲の誰からも決して向けられないような細工が可能であれば、当人は心理学的透明人間になることができる。そのとき、当人は周囲の人間すべての「盲点」となる。