眼の愉悦 | autochromatics differencia

眼の愉悦

 ランダムドットステレオグラム(RDS)というものをご存知だろうか。聞き覚えはなくても見覚えのある方は多いだろう。両眼を交差させたり平行にしたりして(寄り眼にしたり遠い眼にしたりして)、紙上の横並びになった規則的なパターン配列を、両眼の視野内で左右にずらして重ね合わせて、三次元的な像を浮かび上がらせるというアレである。左右に配置された二眼のカメラで同時に撮った写真を同様の手順で重ね合わせても、同じように二次元の写真から奥行きのある像が浮かび上がってくる。

 僕は中学生時代の或る時期にこのRDSの不思議さにとり憑かれ、何冊も本を買って日がな一日眺め過ごしていたことがあった。いまや交差法(寄り眼)も平行法(遠い眼)もお手の物である。ちなみに、平行法を用いると左右や上下に並んだ間違い探しが簡単に解けるので試して欲しい。左右のイラストを融像させ(重ね合わせ)ると、間違いの箇所がチラチラと星のように瞬いて見えるのだ。これは両眼闘争という現象で、左右の視野の対応箇所に入ってくる情報が矛盾するものである場合に生じる。色の異なる二つの丸を左右の眼の前に用意して、それぞれの情報が片方の眼にしか入らないように間に衝立を置いて、左右の色を視野のなかで重ねながら眺めると、この現象が容易に体験できる。まるで両眼が喧嘩をしているように感じられるはずだ。(眼が矛盾を回避するために自動的にアスペクトを転換させているのかもしれない。滝の錯覚では相異なる印象が同時に知覚されるというが、厳密に言って、果たして眼は矛盾を許容するのだろうか)。

機械による判別が主流になる前は、偽札を見分けるのにこの両眼による融像を利用していた。左側に真札を置き、右側に判定すべき札を置く。そして融像を行うと、その札が偽札である場合、交互に眺めていたのでは気付かないほんのわずかなずれであっても、奥行きが発生したり両眼闘争が発生したりして容易に判別できるのだ。人間の眼は驚くほど精巧に出来ているのが分かる。それは生物の器官一般についても言えることであるが。

さて、RDSという装置を発明したのはユレシュという知覚心理学者であるが、人口に膾炙したこの発見によって知覚研究のパラダイムに大きな革命が引き起こされたことはあまり知られていない(そもそも知覚研究という分野自体があまり知られていない。これほど身近な研究主題は他にないと思うのだが。なぜなら、知覚とは各人がそれを通じて世界と接触している当のものなのだから。だが、大抵の場合、知覚の在り方そのものは透過されているのであって、単に知覚の対象だけが気付かれている。しばしば言われるように、最も身近なものほど最も遠いのである)。それまでは片眼で入手可能な情報を基本にして視覚が理解されていたのだが、RDSは片眼ではまったく存在しない情報が両眼によって初めて入手可能となる場合が存在するということを明らかにした。これにより、初期視覚過程(視覚処理の比較的早い段階)に対する捉え方が大きな変更をきたされることになった(詳しくは下條信輔著『視覚の冒険』を参照)。

RDSなどの特別な知覚装置、あるいは錯覚・錯視などの常態を逸脱した事例は知覚を理解する上で極めて有効な手段を提供してくれる(しかし、こうした装置の重視が知覚を実験室の現象へと拘束してきたとも言える)。それは言語障害の研究によって言語学が進展したり、恐慌の研究によって経済学が進展したりするのと類比的であろう。こうした病態的なケースを観察し分析する研究者の眼は、個別的な現象を一般性の把握のために犠牲にしているようにも見える場合があり、時に冷酷なようにも感じられる。しかし、そうした研究の進展が後に病態的なケースを予防・治療する役に立つことも多々存在するのである。無論、その場合にも研究者は個々の患者や事例の具体的な重みを軽視してはならない。

知覚は不思議の源泉であり、哲学的問題のひとつの中心である(他方の中心は言語だろう)。メルロ=ポンティも言うように、「見ること」を学び直すのは、哲学の最も基本的な在り方のひとつではないだろうか。

さて、最後に不思議な錯視をひとつ紹介しよう。リンク先の絵を三十秒間じっと凝視し、視線を絵に向けたままマウスポインタを絵の上に移動させると……。

http://www.johnsadowski.com/big_spanish_castle.html