便りのないのは何の証拠? | autochromatics differencia

便りのないのは何の証拠?

ある友人から長期間に渡って便りがないとき、一般に「便りのないのは元気な証拠」(便りのないのは良い便り)と言うが、この格言が有効に適用されるのは、その友人との間に他の友人を媒介とした人間関係のネットワークが張り渡されている時に限られる。ある遠方の友人aが何らかの深刻な状態に陥ったとき、その友人aの近傍にいて頻繁にコミュニケーションをとっている友人bが存在するならば、私はその友人bからの連絡を介して、友人aの状態についての情報を得ることができる。逆に、友人aとの間に一対一の友人関係しか存在しない場合には、周囲の他の人間が友人aの証言や所有物を手がかりとして私に情報を伝達してくるのでもない限り、友人aの窮境についての情報は得られない。こうした場合、「便りのないのは異常の証拠」である(この「異常」には、病気、怪我、死亡、蒸発、出家、発狂、逃避行、記憶喪失、一方的な絶縁、等々が含まれる)。これは、「便りのないのは元気の証拠」という格言に必要な「人間関係を媒介とした情報ネットワークの存在」というその適用条件を、当該ケースが満たしていないからである。

インターネットを媒介としたソーシャルネットワーキングやブログなどの隆盛により、以前よりも遠方の友人に関する情報は継続的に得られるようになった。しかし、ネット上での開示に適した情報以外の性質の異なる情報や、当人はひた隠しにしたいが私にとっては是非とも知りたい動向情報などに関しては、これらのツールを用いるだけでは不十分である。さらには、そもそもネットを活用したがらない性格の友人たちに関してはこのツールは何の役にも立たない。

さらに、その友人と離れ離れになった時点で人間関係のネットワークが成立していたからといって油断はできない。こうしたネットワークは生き物のように可塑的なものであり、時間の変化につれて結合状態の疎密を変え、結節点と結節線の数も流動してゆく。それゆえ、ある時点で堅固な結びつきを有していたはずのネットワークが、気付いてみたらばらばらに解けていたという事例は多々存在しうる。それを防止するためには、信頼関係の厚い友人を介して当該のネットワークの緊密度についての情報を定期的に更新してゆく必要がある。その上で、緊密度の変化に応じて必要な措置を講じねばならないだろう。無論、そうしたネットワークから外れてしまって音信不通となる友人も出てくるかもしれない。その場合にはやはり、ネットワークの結節点を一個一個辿って当人へと行き着くか、当人からの便りを待つか、どちらかより他に手はない。

個々の友人が多忙さを増して連絡を頻繁に取れなくなってゆくなかで、大切な人間関係を継続的に保ち続けるためには、やはりネットワークを活用した情報リンクの維持に気を配る必要がある。最低限のこととして、自分自身も含め、行方不明者は出したくないものである。