詭弁の弁 | autochromatics differencia

詭弁の弁

昔、ささいな嘘をついた主人公が、次のような理屈に丸め込まれて逮捕されるというCMがあった(確かチョコレートのCMで、主人公は中居君だった)。

諺にあるように、「嘘つきは泥棒の始まり」だ。ところで、夏の始まりはそれ自体が夏の一部だ。それなら、嘘つきはすでに泥棒だ。ゆえに、嘘つきである君は泥棒だ、と。

もし、「嘘つきは泥棒の始まりである」がゆえに「嘘つきはすでにして泥棒である」ならば、世界中のほとんどの人間は窃盗罪で逮捕されなければならなくなり、司法機関は一昼夜にしてパンクするだろう。

しかしながら、「デマゴーグの出現はアテナイの破滅の始まりである」としても、デマゴーグが出現したことが即座にアテナイの破滅を生じさせているわけではなく、ましてや、デマゴーグの出現それ自体がアテナイの破滅と同じ出来事だというわけでもない。むしろ、上の文の中での「デマゴーグの出現」は、そこから始まって「アテナイの破滅」へと結果するある因果系列の原因となる出来事として、その身分を与えられている。何かの原因がその結果とは異なるべきならば、デマゴーグの出現はアテナイの破滅とは異なるのである。

同様に、嘘つきはしばしば泥棒へと至る道の入り口であるが、嘘つきがすなわち泥棒だというわけではない。嘘を頻繁につくことは当人の不正行為に対する罪悪感を薄れさせ、犯罪一般への心理的障壁を低くし、窃盗を犯す傾向性を高め、その結果、窃盗を犯すような誘惑が生じた場合に嘘つきでない者より窃盗を犯しやすくなる、ということは大いにありうる。それゆえ、嘘つきであることと泥棒であることとの間には或る程度の因果的・統計的な相関性が存在すると思われる(例えば統計的調査を行えばそれなりの結果が出るだろう)。嘘つきであることはこのように、泥棒を結果とするある因果系列の原因として機能しうるのである。

改めて確認しよう。原因と結果が異なるべきであるならば、「嘘つきは泥棒の始まり」だとしても、嘘つきはすでにして泥棒であるというわけではない。それゆえ、司法機関はパンクせずにすむのであり、中居君も逮捕されずにすむのである。私は中居君を目にすると眉をひそめ始めるタイプだが、この世から冤罪がひとつでも減るのは好ましいことであると思う。