弔いへ向けて | autochromatics differencia

弔いへ向けて

 父方の祖母が危篤状態にある。半年ほど前から胆管癌を患い、余命は一年以内と宣告されていたが、一週間ほど前から出血が始まり、現在は輸血を続けながら命を繋いでいる状態である。未だに祖母へ病名の告知はしていないが、両親の言では、本人の精神状態や病状の進行過程を考えた上での決断であるという。胆管癌は数多い癌のなかでも自覚症状の少ないものらしく、この病気が発覚したのも黄疸が出た際に診療を受けた結果であった。癌はときに多大な苦痛を伴い、また治療のための抗癌剤も同様に壮絶な副作用を生じさせる場合が多い。緩和ケアの制度的基盤が未整備な日本において、癌を発病したとはいえそれが苦しみの少ないものであったことは、せめてもの慰めであり救いであったのかもしれない。現在は延命治療を施し輸血用のチューブで生の世界へと繋ぎとめ続けているのだが、それよりは、今ある逃れがたい不安状態から解放し、先立った祖父のもとへ旅立てるようにという思慮から、来月頭には輸血を停止する予定であるという。その数日後にはおそらく死の時を迎えることになるだろう。遣り切れない想いは解消できぬものとして残るが、こうした選択を家族の一人として切に受け止めなければならない。


父は末っ子の三男であるが、実家の家業を継いだため、私は幼時から祖母と日々をともにしてきた。祖父母と寝起きをともにしていた時期もあり、私は七人ある孫たちのなかでも特に可愛がられていた。それゆえ、祖母との間にある絆もひときわ強いものだった。手先の器用な人で、幼き日には、折り紙や綾取りなど、伝統的な遊びの数々を一緒になって教えてくれた。


私が高校生のときに祖父が亡くなり、その後、ともに暮らしていた孫も兄弟ともに実家を離れていくことになった。実家へ帰省するたびに、笑顔で、しかしどこか寂しさの漂う笑顔で、祖母は私を迎えてくれた。そのたびごとの姿が今ありありと眼前に浮かんでくる。前回帰省したときには寂しさをこらえきれず、涙を目尻からぽつりぽつりとこぼしていた。それは胸を打つ涙であった。宣告された余命の期間を越えることなく、祖母は今生きて在る日々を終えようとしている。


その祖母の弔辞を私が書くことになった。未だ意識あり生命ある者の弔辞を準備しなければならないというのは、後ろから死出の扉へと手を添えているようで、どこか後ろめたいものである。しかし、齢八十八の旅出である。祖母から受け取った多くの形なき財産に報いるよう、万感を指先へと縒り合い、弔いの言葉を書き出してゆこうと思うのである。