格闘の記録 | autochromatics differencia

格闘の記録


John Mcdowellの“Mind and World”を読み進めているが、デイヴィドソンの非法則的一元論と関連する箇所で大幅に行き詰まったので、復習しつつ読解を試みてみた。以下はその記録である。非法則的一元論については入江幸男氏の次のページにわかりやすくまとめてある。


http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/mori/great/Davidson.htm


Sellarsの『哲学と科学的人間像』も先日読了した。恐ろしく難解な論文だったが、次々と解釈上のブレークスルーを重ねたので、相当な部分は解説できるくらいまで理解したように思う(第七章直前の長大な一文は別として)。ただし、困ったことに内容が大風呂敷すぎて他では使えそうにない。もしあの論文を読んで行き迷った方があったら相談に乗るよ、という使い道しか思いつかない。涙が出そうだ。



Mind and World

lecture Ⅳ.Reason and Nature


【原文&解説】


p.743

He urges that concepts of “propositional attitudes” make sense only as governed by a “constitutive ideal of rationality”.


ここで命題的態度の概念が登場しているのは、それを表現する諸々の動詞をわれわれが心的なものとみなしており、それゆえ、当の概念は理由の空間を構成する概念として適切だからである。では、もう一方の引用符の中身である「合理性の構成的理念」とは何か。デイヴィドソンはその論文「心的出来事」において、以下のように〈心的なものを法則によって物的なものへと還元することがなぜ不可能なのか〉を説明している。「合理性の構成理念」という表現が登場するのはこの文脈においてである。

まず、心的なものは全体論的である。なぜなら、たとえば思考と行動の結びつきを考える際にも、「信念や欲求は、他の信念や欲求、態度や注意などによって際限なく限定され媒介されたものとしてのみ、行動に現れてくる」からである(邦訳p.278)。しかし、この心的なものの全体論性は還元不可能性の主たる理由ではない。なぜなら、物的なものに関する理論にも、それを構成する諸概念間に全体論的な相互依存関係が成り立っているからである。

次に、心的なものは理論負荷的である。ある人物のもつ命題的態度を叙述する際には、そのthat節の内容を特定するために翻訳という手段を用いなければならないが、翻訳を与えうるのは翻訳理論を背景としてのみである。したがって心的なものの記述は理論負荷的である。翻訳の不確定性によれば、適切な翻訳理論は同時に複数可能であり、しかもその複数可能性は排除できない。しかし、この心的なものに関する理論の複数可能性、すなわち心的なものの不確定性も還元可能性にとっての躓きの石とはならない。なぜなら、こうした複数可能性の存在は、ある理論を任意に選択し、それに相対的に心的特性を個体に帰属させることが可能であるということと両立可能だからである。

最後に、デイヴィドソンが還元可能性を拒む主たる理由として挙げるのが、心的なものに関する「合理性の構成的理念」である。「信念や欲求、等々、の概念を用いるときわれわれは、証拠が増加するとともに、総合的説得力という観点から理論を調整する用意がなければならない……すなわち、合理性に関する構成的理念が、理論――それは進化する理論でなければならない――の進化における一局面を部分的に制御しているのである」(邦訳p.287)。翻訳理論を構築する際に、われわれは寛容の原理によって話者の信念をその大部分が真であると想定しなければならない。これは、われわれのもつ合理性を話者へと帰属し、それを構成原理としながら理論構築を行わねばならない、ということである。上記の引用もこの合理性の働きを指している。こうした合理性の適用は心的なものに特有であり、しかもその適用は不可避的であるが、物的なものにはその概念を適用することはできない。この相違が還元不可能性を唱える主たる理由として考えられているのである。

したがって、合理性の構成的理念とは、命題的態度の帰属を行う際にその背景理論を全体論的に制約しつつ構成することを可能にする原理であり、この原理なしでは心的なものを決定できないのである。「合理性の構成的理念」によって制御されている場合にかぎり「命題的態度」の概念は意味をなしうる、というのはこうした機序によってなのである。


p.743

‘To place things in the realm of law’


 たびたび用いられているこの表現の意味するところは、〈ある物事に対して法則による説明を与えること〉であろう。こうした法則の領域における〈法則的定位〉は、理由の空間における対応物である〈合理的定位〉とは異なる理解可能性に従うものである。


p.744

・・・an ontological claim: the very things that satisfy the sui generis concepts・・・are already in principle available to an investigation whose concern is the realm of law.


 これは非法則的一元論の主張である。’ the very things that satisfy the sui generis concepts’とは理由の空間に属する項、すなわちデイヴィドソンの文脈で言えば〈心的なもの〉のことであり、これが科学的探求によって利用可能であるとされるのは、心的なものがそれと関連する物的なものと存在論的に同一だからである。


・・・ontological claim specifically about events: every event, even those that fall under the concepts that subserve space of reasons intelligibility, can in principle be made intelligible in terms of the ooerations of natural law.


 この出来事に関して特殊化された存在論的主張も、上と同様に非法則的一元論の主張である。したがって、「理由の空間」に属する心的出来事は関連する物的出来事と存在論的に同一であり、その出来事そのものは法則的な説明によって理解可能である。


当段落は以下一文ずつ解説を行う。

p.751

Davidson’s purpose here is to make room for holding that the satisfiers of the sui generis concepts stand in causal relations, to one another and to other things, without threatening the thesis that causal relations hold only between occupants of the realm of law.


デイヴィドソンの用語を使えば、「理由の空間を構成する諸概念の充足項」は〈心的なもの〉であり、「法則の領域の占有項」は〈物的なもの〉である。デイヴィドソンの目的は、「物的なものの間でのみ因果関係が成り立つ」というテーゼを脅かすことなしに、心的なもの同士や心的なものと物的なものとの間に因果関係を認めることである。


Given that thesis, satisfiers of the sui generis concepts can be causally linked only if they are also occupant of the realm of law;


 「物的なものの間でのみ因果関係が成り立つ」というテーゼを認めれば、心的なもの同士はそれらが同時に物的なものである場合にのみ因果的に結び付けられる、ということになる。


And Davidson says they are, even though they are not revealed as such by satisfaction of the sui generis concepts.


 あるxは、それが命題的態度を含む開放文Mを充足するならば(=「xはMである」 x is Mを充足するならば)、心的なものである。デイヴィドソンは、心的なものがこうした充足によって因果関係をもつものとして明らかにされなくとも、心的なものは因果関係をもつと述べる。’even though’’even if’と異なりそれ以下の文が実際にそうである場合に用いられることから、命題的態度の充足によっては心的なもの同士の因果関係は決して明らかにされない、とデイヴィドソンが考えていることがわかる。これは彼が「心的なものの非法則性」を擁護することから明らかである。


But we come closer to my concerns if we consider a counterpart purpose, in which the thesis that causal relations hold between occupants of the realm of law is replaced by the thesis that to be natural is to have a position in the realm of law.


 当段落第一文のテーゼを「自然的であるとは、法則の領域のなかに定位することである」というテーゼに置換するならば、マクダウェルの狙いにより接近することができる。なぜなら、デイヴィドソンが合理性(理由の空間)と因果性(因果の空間)を対比させたのに対し、マクダウェルは理由の空間と法則の領域を対比させるからである。


In this context, the point of the ontological claim would be to make room for holding that the satisfiers of the sui generis concepts are items in nature, even though their satisfaction of the sui generis concepts does not disclose their positions in the realm of law.


 前文のように関連するテーゼを置換すれば、デイヴィドソンの存在論的テーゼのもつ主眼は上のようになる。それをここまでの解釈を用いて書き換えれば、「心的なものは、その充足によって法則的説明が与えられなくとも、自然的なものである」となる。これはマクダウェルの明らかにしたい論点である。