根本的翻訳と根本的解釈 | autochromatics differencia

根本的翻訳と根本的解釈


読書会のために冨田恭彦著、『クワインと現代アメリカ哲学』、第4章、「根本的翻訳と根本的解釈――解釈学のもう一つの系譜――」をまとめたので掲載しておきます。


概ね本文の要約であるが、必要と思われる箇所には〔〕内に私自身による補足・付記を挿入した。


1.解釈学のもう一つの系譜

 サールの仕事は、その志向性理論を通じて、大陸系の「現象学的伝統」との対話を醸成するものであった。同様に、クワインとデイヴィドソンの仕事を、ハイデガーやガダマーなど大陸系の哲学者たちからなる「解釈学的伝統」との対話を促進することが可能なものとして理解することができよう。本章の狙いは、クワインとデイヴィドソンの仕事――とりわけ「根本的翻訳」と「根本的解釈」に関するそれ――を「解釈学的」探求として位置付け、その内実と意義を検討することである。これは、分析哲学と大陸哲学という二つの伝統を絶縁関係へと閉じ込めてしまうのではなく、両者を対話可能なものとして、より大きな西洋哲学の流れのなかから再検討しようという試みの一環である。


2.根本的翻訳の基本的枠組み

 クワインによる「根本的翻訳」の基本的な問題設定は、「フィールド言語学者が未知の言語を調査して辞書と文法書を作ろうとするとき、何をすることになるのか」である。翻訳マニュアルを作るという自らの目的に際して、現地人の心理状態そのものを直接認知することはできないのだから、フィールド言語学者がさしあたり依拠することができるのは、〔現地人の感覚器官に刺激を与えているのが観察される物理的な力と、〕発話を含むさまざまな間主観的に認知可能な行動だけである。言語学者は、まず現地人の言語行動とおぼしきものを観察しなければならない。この場合、言語学者が最初に考察すべき文は「観察文」である。

〔クワインは「場面文」と「定常文」を対比し、観察文を場面文の特殊ケースとして位置付ける。定常文とは、「エーテル流が存在する」「クロッカスの季節は終わった」「タイムズ紙が来た」のような文であり、「過去にある刺激によって同意または不同意が促されたのち、再び問われたとき、被調査者がそのときの刺激には促されずにかつての同意もしくは不同意を繰り返しうる」という特徴をもつ。他方、場面文は「うさぎだ」「赤い」「彼の顔は汚れている」のような文であり、「そのときどきの刺激によって被調査者が今一度促されてはじめて、同意もしくは不同意が決まる」という特徴を持つ。これらの区別は刺激係数(刺激の持続時間をどの範囲でとるかの極大値)に相対的である。たとえば、「タイムズ紙が来た」のような文も、発話時刻と刺激係数を調整すれば場面文と認めうる〕。

観察文とは、場面によって真偽が決定するこうした「場面文」のうち、ある状況で問われたときに、推論に基づかず同意または拒絶を与えうる文である。〔ここでの「推論に基づかない」とは「付帯的情報の影響を受けない」ということである。たとえば、「独身者だ」のような文は付帯的情報の影響を大きく受ける文である。当人が独身者であるかどうかはもっぱら蓄積された付帯的情報に基づいて判定されるが、そうした付帯的情報は発話時に話者が受けている刺激を越え出ているからである。他方、「うさぎだ」のような文はこうした傾向をほとんどもたないがゆえに観察文として認めうる〕。観察文は発話者に与えられた体表刺激に対する条件付けとして学ばれ、以後も外的刺激へのこの直接的な関係を基本的な特徴として保持し続ける。

 次に、観察文の翻訳手続きを見てみよう。現地人がある状況である音声を発したとき、言語学者はその基本データである音声に「感情移入」的処理を施す。すなわち、自らが彼の立場に置かれていたとしたら、何と言っただろうかを考えるのである。たとえば、現地人がうさぎを視認している状況で「ガヴァガイ」と発話したとき、言語学者は彼が「うさぎだ」と言ったのではないかと推論する。こうして「ガヴァガイ」の翻訳候補として「うさぎだ」という文が手に入る。次に、言語学者はさまざまな状況において現地人の前で実地に「ガヴァガイ」と発話して見せ、その発話がうさぎの現前している状況で同意を得るか、また、うさぎが不在の状況で不同意を得るか、を確かめてゆくのである。

 こうした作業は、観察文の翻訳という端緒を越えて、文を構成する様々な要素の機能を明らかにし、非観察的な文の翻訳をも可能にするような翻訳マニュアルの作成へと至るものでなければならない。この作業は仮説の形成とその検証の繰り返しからなる。


3.好意の原理と翻訳の不確定性

 根本的翻訳の考察においてとりわけ重要なのは、「寛容の原理」〔冨田は「好意の原理」と訳しているが、慣例に従って「寛容の原理」と訳す〕と「翻訳の不確定性」のふたつである。

「寛容の原理」とは「相手の言うことができるだけ正しいものとなるよう翻訳(もしくは解釈)せよ」というものである。クワインはこれを論理定項の翻訳(たとえば矛盾律の帰属)など特定領域に関して強調したが、デイヴィドソンはこれを全面的に強調した。しかし、クワインのおいてすでに、こうした「寛容の原理」の全面展開が暗黙のうちになされていたと考えることもできる。これについては後述する。

次に「翻訳の不確定性」である。翻訳の不確定性はクワインが後に区別した二つの面をもっている。すなわち、「(本来の意味での)翻訳の不確定性」と「指示の不可測性」である。前者は、「同じデータに基づく翻訳マニュアルには、相互に両立し得ない複数のものが可能であり、翻訳は一意には定まらない」というものである。〔後者は翻訳マニュアルを作成する場面に関わるが、前者は作成されたマニュアルそのものに関わる〕。しかし、指示の不可測性によって翻訳の不確定性を説明することも可能であり、実際に『ことばと対象』ではそのように説明されている。

指示の不可測性の例として、再び「ガヴァガイ」をとりあげる。われわれが通常うさぎとしているものは、〈うさぎの各部分の統合体〉〈うさぎの時間切片の合計〉〈全世界に散在するうさぎの融合体の一部〉〈うさぎ性という普遍のひとつの現れ〉のいずれとも考えられる。したがって、「ガヴァガイ」は〈うさぎの部分〉〈うさぎの時間切片〉〈うさぎすべての融合体〉〈うさぎ性〉のいずれかを指示しているかもしれない。このような指示の複数可能性はいかにしても排除できない。なぜなら、うさぎを指すような指示行為は、同時にこれらのいずれをも対象となしうるからである。さらに、「同じ」とか「異なる」とかいった「個体化」に関する言葉に訴えてもこの問題は解けない。なぜなら、〔たとえば「うさぎの部分」という翻訳を排除しようとする場合は耳と足を指さしながら、「うさぎの融合体」や「うさぎ性」を排除しようとする場合には別個のうさぎを指さしながら、〕「このガヴァガイはこれと同じか」と尋ねても、「同じ」が「ともにある」と翻訳される可能性を考慮に入れれば、そうした確認の仕方は失敗することになるからである。〔耳と足など異なる二つの「うさぎの部分」は「同じ」ではないが「ともにある」。したがって、「ガヴァガイ」が「うさぎの部分」を指示するか否かを確かめようとして「このガヴァガイはこれと同じか(現地語)」と問うても、「同じ」が「ともにある」と翻訳されるならば、本来の翻訳は「このうさぎの部分はこれとともにあるか(母国語)」となり、同意が導かれてしまうのである〕。ある単語の翻訳を変えても、それに伴う調整を体系的に行えば、問題が生じないことがありうる。したがって、指示は不可測的であることを免れない。

翻訳の不確定性は根本的翻訳の場面だけではなく、母国語の話者同士の対話においてさえ原理的には存在しうる。これを理解するためには、母国語から現地語へ、そして再び母国語へと翻訳を往復させるケースで、それぞれ異なる翻訳マニュアルが使用される場合を想像すればよい。


4.不確定性の度合い

 このように翻訳の不確定性の存在は認めざるをえないとしても、その度合いはコミュニケーションを不可能ならしめるほど大きなものではない。たとえば、先ほど「ガヴァガイ」の翻訳候補となったものはすべて、「そうした状況を表す別の表現としてどのようなものが考えられるか」という問いに対するわれわれの解答なのであり、われわれの考え方の投影なのである。したがって、それらは互いに理解不可能なほど異なったものとはならず、どの候補が採用されてもコミュニケーションは不可能とはならないのである。

 だとすれば、クワインにおいてすでに「寛容の原理」の全面展開が暗黙裡に果たされていたということになる。実はこれは、言語学者は現地人の発話を「感情移入」的に処理すべきという制約によってすでに示唆されていた。〔すなわち、感情移入の働きによって発話処理を行うとは、言語学者が現地人に彼自身のもつ合理性を投影することなのである〕。この点をさらに追及し、翻訳不可能な概念図式の存在を否定するにいたったのがデイヴィドソンである。


5.根本的解釈

 (根本的解釈の基本的前提の解説は前回の繰り返しになるため割愛)

 デイヴィドソンの「根本的解釈」はクワインの「根本的翻訳」の延長線上にある。すなわち、フィールド言語学者はT文の形をなすデータを収集することから解釈理論の作成を開始するのである。クワインの例を用いれば、ある状況で現地人が「ガヴァガイ」と発話したとき、言語学者はひとまず「「ガヴァガイ」はうさぎがいる場合に、しかもその場合にのみ真である」と考え、その確認作業を行う。そして、このようなT文の形をしたデータを基盤として公理系的な解釈理論を作成するのである。


6.「好意の原理」再訪

 フィールド言語学者は、解釈の試みを開始するに際し、現地人の信念や意図に関する知識を前提することはできない。それらを知るためには相手の発する文の意味がわからなければならないのである。しかし他方、文の意味を知るためには相手の信じ意図するところのものを知らなければならない。この循環的状況において彼が採用するのは、信念を固定するという方式である。つまり、発話状況から相手の持っている信念を推測し、それを当人へと試行的に帰属するのである。

 この作業において言語学者は全面的に「寛容の原理」に依拠しなければならない、というのがデイヴィドソンの考えである。つまり、「相手の信念が極力真なるものとなるよう解釈を試みなければならない」のである。言語学者は互いの信念が大部分一致しているとみなすところから出発する。その際の基準は言語学者の側にある。しかし、それは自文化中心主義的な営みなどではなく、解釈者から独立した中立的・客観的解釈なるもの(=神の視点)を否定することなのである。

 このように「寛容の原理」を全面展開することから、デイヴィドソンは概念相対主義を否定するに至る。つまり、ある概念図式が言語であると確信をもって言えるのは、それが翻訳可能である場合に限るのであり、翻訳不可能なほどの差異を言語間に帰すことはできないのである。

 無論、「根本的解釈」に関する主張は「根本的翻訳」と同様、母国語の使用に関してもあてはまる。母国語の話者間でもデイヴィドソンが論じたような解釈が行われているのであるが、ただ、根本的解釈の状況におけるほどの意識的努力を必要としないがゆえに、このことがしばしば気づかれないだけなのである。言語が同一であることの確認も、実は解釈の円滑さに基づいているのである。


7.創造性への視点

 クワインとデイヴィドソンは思考や言語活動の創造性に光を投じている。クワインは、分析命題の特権性を否定することに顕著なように、信念体系の固定化を拒否し、その可塑性を擁護するスタンスをとっていた。また、『ことばと対象』における彼の試みのひとつは、わずかな刺激から豊かな理論を作り上げる人間の創造的営みに着目させることであった。デイヴィドソンもしかりである。しかし、クワインが刺激と言語習得および理論形成の関係を考察したのに対し、デイヴィドソンは刺激概念をこのように使用することを拒否する。デイヴィドソンによれば、解釈者がデータとして確認するのは、近位的な刺激そのものではなく、遠位的な状況の具体的内容だからである。こうした近位説と遠位説をめぐる両者の錯綜した関係については本書の次章「近位説と遠位説との間――クワインの刺激概念再考――」を参照願う。