『解明される意識』第8章レジュメ | autochromatics differencia

『解明される意識』第8章レジュメ

8 HOW WORDS DO THINGS WITH US


1 おさらい:「多から成る一」?

脳内の継ぎはぎ状の様々な専門的回路にまとまりをもたらすと想定されている「中心の意味主体(the Central Meaner)」という錯覚の実態を明らかにし、その力を中和させることが本章の目的。


架空の批評家オットーの発言:

・4章のロボット「シェーキー」に言語的報告を可能にするようデザインを施すことはできるが、それは単なるトリックに過ぎない。なぜなら、シェーキーには「内面」が、つまり知覚的インプットと言語的アウトプットの中間に存在しているはずの「意味主体」が欠けているから。

・私は意識の内で体験に照らして文をあれこれと彫することで、その体験にぴったりの正確な内容をもった報告を「判断」して作り出すことができる。この過程は私秘的だが、それについての内観的報告からあなたは私の意識体験のある特性を知ることができる。


オットーモデル:中心における確定した意味⇒意味に合わせた文の彫琢⇒文の適切性の判断⇒発話


・このオットーの発言は、発話体験についての①〈オットー自身による報告データ〉、②〈理論的主張〉のふたつに区分できる。デネットは①を適切に説明し、②を論破するために、「意味主体」抜きで意味を説明することがいかにして可能かを解明しようとする。


2 官僚政治 対 百鬼夜行(Pandemonium)

・言語〈了解〉システムについての理論やモデルは数多いが、言語〈生産〉システムについてはごく僅か。

・了解過程のインプットは大気中の音の波形や何らかの平面上の記号列といった明確なものであり、少なくともスタートラインだけは合理的に定めることができる。それに対し、生産過程の端緒を見出すのは困難。


官僚政治的モデル:レヴェルト(Pim Levelt, 1989)による言語生産モデル

・アウトプットから逆方向へ、あるいはイン‐アウトプットの中間から研究を進めることでモデルを構築。

・概念化器(conceptualizer)によって生み出された心的言語(Mentalese)による命令が定式化器(formulator)へと伝達されて、目的を実現する具体的な手段としての言語(英語など)へ変換される。このモデルはフォン・ノイマン機械のように直列式に処理される。概念化器が中心の意味主体であり、主要な仕事はすでにそこで完了している。

・「中心のどこかにすでに確定された『思考』が存在し、言葉にされるのを待っている」という描像はオットーの見解と共通。しかし、官僚政治的モデルでは、情報処理の流れにおける目的‐手段の結合が進化と個体的発達との結合によってあらかじめ定められており、オットーの見解のように「判断」の介入する余地はない。


官僚主義的モデル:概念化器による意味の生成⇒心的言語による命令の伝達⇒定式化器による変換⇒発話


百鬼夜行モデル:デネットの創案による対抗的カリカチュア

・われわれの内では、様々な語デーモン(word-demons)たちがノイズから文章を形成する並列的言語処理のめまぐるしい興亡を繰り広げていて、その混沌のなかからいくつかの完成された文章候補が出現し、それらの内で現在の心的態度(mind-set)に半ば叶ったもののひとつが勝利を収め発話される。

・諸々のコミュニケーションの意図を原因とするそうした準‐進化的なプロセスによって、さらなる意図が結果し、それがプロセスのさらなる実行の基準として働いてゆく。意味の唯一の源泉といったものは存在せず、多くの源泉が入れ替わり立ち代り正しい語を求めて発達してくるのである。「意味」として立ち現れてくるものも、中心の意味主体によってあらかじめ判定されるのではなく、こうした場当たり主義的なプロセスから徐々に発達して産出されるに過ぎない。

・このモデルでは通常、話し手は自らの言うことを聞き手と同時に知るのであり、聞き手に先立って(内観的に)知っているのではない。


3 言葉はいつ言ってほしいと思うのか?

・デネットはこれら両極的な二つのカリカチュアのスペクトル間に、より現実的な方法が存在するとする。それがどこなのかは経験的検証を待つべき問いであるが、デネットは次に百鬼夜行モデルによってよりよく説明されるいくつかの現象を概観することによって、自身の描き出したモデルに支持を与えようとする。


(1) フロイト流の言い間違い

・フロイトが着目した言い間違いは、無意識的な「意図」が談話に滑り込み、話者の抑圧された「狙い」を満足させるものとされる。Birnbaum and Collinsはこれを、あらかじめ考えられた計画の結果としてではなく、様々な「狙い」が素材を求めて警戒態勢をしいているような、並列的なプロセスによって行われていると説明する。

・デネットはむしろ、「素材自体」が自らを具現化する機会を求めて警戒態勢をしいているとしたらどうかと問う。非官僚主義的な言語生産システムにおいては、諸々の語自体(=ミーム)が公的に表現される(=表現型を得る)ことを求めて互いに競い合っているからである。


(2)短編小説を書き上げるプロセス

・ハンプル(Hampl)の告白的証言によれば、作家には批評家たちが解釈するような「洗練された意図」などなく、曖昧で一貫性を欠き、何か急き立てるような「目的」があるだけである。そうした目先の目的に促された「おしゃべり」が、最後には形をとって、作家の是認に出会うのである。

・そうした場合、作家自身でさえ自分のテキストの解釈においては外部の批評家や解釈者と同じ船に乗っているのである。


デネットの自己批判

・かつてデネットは『内容と意識』のなかで、「コミュニケーションの意図の前意識的定着」と「それに続くその意図の実行」の間には際立った機能的ライン(気づきのライン)が存在していると考えた。意味はこの分水嶺に定着しており、そこが意味の発生の場である。このラインの向こう側で起きた誤りは言い間違いや発音の誤りなど「表現上の誤り」となり、こちら側で起きた誤りは「本来表現されるべきもの自体の変更」となるのである。

・こうした考えの間違いは、何らかの「固定した」ラインが存在しなければならないという思い込みにある。オーウェル流の改竄とスターリン流の改竄の間に線を引くことが不可能であるのと同じように、こうした線引きは恣意的なものにしかならない。

・なぜなら、「表現されるべき内容」と「言語表現の多様な候補」との間の「意味論的空間におけるミスマッチの距離」を縮めるべくフィードバックを繰り返すという言語生産のプロセスにおいて、最も手近で利用可能な単語や言い回しが実際に「経験内容」を変えてしまうこともありうるから。


「意味主体」の統一が粉砕されたと思われるケース


(3)塁審の判断

・デネットが野球の塁審を務めた際、きわどい判定で「アウト」のサインである親指を突き上げながら口では「セーフ」と叫ぶということがあった。デネット自身にもどちらが正解であるかを何らかの特権的な立場から判定することはできなかった。


(4)盲視症

・盲視症の被験者が、閃光が見えたら、①「イエス」と言う、②ボタンを押す、③瞬きをする、という三つの行為を行うよう指示された。驚いたことに、被験者はこれら三つの行為を時にばらばらに行い、しかもこれらを互いに順序づける方法も存在しなかった。被験者には、ばらばらになされた三つの行為のどれを受け入れ、どれをミスと考えるべきかについて従うべきパターンがなかったのである。


「中心の意味主体」から命令が出されていないのに、言語化が働き始めるケース


(5)ジャーゴン失語症

ブローカ型の失語症では、患者は自身の疾患を自覚しており、言葉を何とか探し出そうと躍起になるが、ジャーゴン失語症の患者は、自身の言語疾患で悩んでいる風には見えず、自らの言語的営みに満足しているように見える。


(6)作話症

・病的作話症のうち脳に損傷のあるケースでは、患者は重度の記憶障害を伴い、二、三分前の出来事についてもでたらめな話をペラペラとしゃべり始める。


・これら(5)、(6)のケースは、患者本人が欠損に気づいていない「病態失認」の一例。これらが示すのは、上部からの一貫した命令がなくとも、脳の機械装置は見かけの発話行為を構成することが可能であるということ。


終わりに

・本章でスケッチした百鬼夜行モデルは最初馴染みが薄いと思われるかもしれないが、何らかの「中心」に知的な主体を想定する思考習慣の誤りは、生物学や知覚心理学、行為論などでも同様に戒められている。中心に想定された知性に代えて、互いに協調的に働く半‐独立的な半‐知性という究極的には機械論的な織物を置く必要がある。

・「中心の意味主体」の崩御は、より一般的には「中心の意図主体」の崩御でもある。第10章でこの「ボス」を扱うが、それに先立ち、次章ではこうした新しい思考習慣の基礎をさらに安定したものにするための議論を行う。