倫理学3 | autochromatics differencia

倫理学3


1. 仮言命法と定言命法

 『道徳形而上学の基礎づけ』において、「いかに行為すべきか」という倫理的問いに対する基準としてカントが見出したのは、われわれの行為が絶対的・無条件的な良さを満たすためには、その行為が「定言命法」という形式において命じられていなければならない、というものだった。「定言命法」とは、ある行為がそれ自体において、他の目的に従属することなく、客観的必然性を持つと表現する命令形式である。これに対して、ある目的を実現するための手段としての行為を表現する命令形式が「仮言命法」である。われわれの行為が「仮言命法」によって命じられているならば、その行為は経験的な原理に基づくことになり、その限りにおいて相対的な価値しか持ちえない。定言命法に基づく行為のみが、ア・プリオリな普遍的妥当性を満たしうるのであり、われわれの義務として、単なる格率ではなく道徳法則として妥当しうるものなのである。そこで、カントは次のような「普遍的法則の定式」を打ち立てたのである。すなわち、それは「汝の格率が普遍的法則となることを、汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ」(1)という定式であった。(492字)


2.マッキーの普遍化の原則と問題点

 カントによれば、われわれの行為の格率がそれ自体において道徳的であるために満たすべき条件は、その格率が客観的法則として表現されなければならないというものだった。現代倫理学の表現に従えば、格率の「普遍化可能性」が道徳的妥当性を規定する、と換言できよう。マッキーは、この普遍化可能性の原理を次の三つの段階に分節し、定式化する。まず第一段階の原則は、「数的差異を度外視すること」である。しかしこの原則のみでは重要視あるいは除外すべき差異に対して実質的な拘束力を持たない。従って、次の第二段階の原則は、「自分を他人の立場においてみること」となる。これによって、性質的な差異に対する考慮が可能になるが、しかし次の第三原則を満たすべき条件としなければ、他者の立場に身を置くという所作は不十分である。第三段階の原則は、「自分自身とは異なった趣味や対立する理想を考慮に入れること」である。

 マッキーの普遍化の原則の問題点は、その一定の限界にある。実践的拘束力の不足、性質的差異に対する取捨選択の決定不能などが普遍化の原則の呈する限界点を境界づける。また、合理的な行為者が普遍化しうると見なす行為を行うにもかかわらず破滅がもたらされてしまう「共有地の悲劇」の問題も挙げられよう。(528字)


3.討議倫理学における規範の根拠づけの仕方と問題点

 ハーバーマスによれば、コミュニケーション的行為に参与する全ての者は、その前提となる「背景的同意」が含む妥当要求を潜在的に想定している。しかし、この妥当要求が疑問視された場合には、こうした規範の正当性を吟味する「討議」が行われ、「理想的発話状況」に基づいた形式的な合意形成の手続きによって規範の根拠付けがなされる。

 ハーバーマスは真理の合意理論を採用しているが、討議における真理の確証の原則として、(1)「討議倫理学の原則」、(2)「普遍化の原則」が挙げられる。(1)は規範の妥当性要求の基準として、関係者全員の合意を要請するものであり、(2)は当の規範を遵守することで各個人の関心の充足にとって生じると予見される結果が総員にとって非強制的に受け入れうるものである場合にのみ、合意形成がなされるというものである。

 討議倫理学に対する問題点としては、「理想的発話状況」というコミュニケーションの前提を根拠とするだけでは、実践的な現実の場において真理を保証することができないという点が挙げられる。(443字)


4.自己目的性の要求と道徳感情の関係

 カントの道徳哲学において、人格および人間性は他の自然的諸対象(=物件)とは隔絶した比類ない価値を有しており、それを目的自体として尊重しなければならず、たんに手段として扱ってはならないとされた。ここから自己目的性の形式的な要求が帰結する。われわれは他者を人格として、すなわち目的自体として扱わなければならないのであり、そのための義務と責任を負うているのである。

 プラトン、アリストテレス、アダム・スミス、ストローソン等による道徳感情の分析では、人間の徳性の探求がなされているが、とりわけストローソンの分析において、自己目的性の要求の基礎づけに対する試みがなされている。

 ストローソンによれば、人間の間人格的な態度への自然なコミットメントにおいて見出される反応形式の分析によって、われわれは自発的で前‐反省的な態度において、他者がわれわれを目的自体として尊重し扱うことを期待していることを理解することができる。人間のプリミティヴな反応の内に、すでに「人間は人格である」という態度が表れているのである。(446字)


5.キケロのpersona概念に基づく幸福概念

 personaは「仮面」という語義を持つが、そこからわれわれが自らの生の舞台において演じるべき「役割」という意味が派生した。キケロはこのpersona概念を四つに分節化する。まず第一は、誰しもがその枠内にあるところの「理性的・倫理的本性」であり、第二は、個々人が自然によって与えられた本性や気質であり、第三は、偶然的な外的・社会的事情によって規定される役割であり、最後は、われわれが自由な判断によって身につける役割である。

われわれの「生の形式」はわれわれの自由な意志によって主体的に選択されなければならないが、同時にわれわれの自然的本性と社会的諸条件に合致し、調和するものでなければならない。理性によって与えられる道徳法則は、それの内で自らの「生の形式」が展開される枠組みをなす。こうしたpersona概念から、現世的な幸福概念が導き出される。すなわち、幸福とはわれわれが自らの「生の形式」において、自己自身に応じた役割を演じ、実現することである。(424字)


6.実質的な自己目的性の原則

 キケロの幸福概念によれば、われわれの幸福は自らの生の形式を自己自身に応じて選択し実現するところに存ずる。その前提として、現実的自由としての決断の自由と行為の自由が不当に制限されることなく確保されていなければならない。決断の自由とは、「生の形式」の選択についての自由であり、行為の自由とは、決断を実行に移す能力と可能性についての自由である。

 ところで、われわれは他者の人格性に由来する自己目的性の形式的な要求を命じられている。ここから、自らの行為に関する相互的責任の要求が帰結する。われわれは、自らの行為に対し、責任を負いうるような仕方でそれをなす義務を負っている。われわれの「生の形式」は常に間人格的に編み上げられてゆくものである限り、幸福概念は自己目的性の要求を充足するようなかたちで再定式化されなければならない。こうして実質的な自己目的性の要求は以下にように定式化されるだろう。「われわれは、自らの行為に関わる全ての人々の決断と行為の自由を理由なく制限しないように、そしてこれらの自由を、他者が自らに指定し可能にする範囲において促進するように、行為せよ」。すなわち、相互的な現実的自由の実現が、われわれに課せられた実質的な自己目的性の欲求なのである。(526字)


7.ロールズの正義論

 ロールズはその著『正義論』において、功利主義的な正義観に対抗し、社会契約論の現代的再構成を行うことにより、「公正としての正義」を提唱した。ロールズはまず仮説としての原初状態を想定する。そして、その状態において合理的選択能力を有する人々が、討議によって自らの採るべき正義原理を選択する。その際、人々は自らの生活水準に対する知などを持たない状態にあり、「無知のヴェール」の背後にあるとされる。ここで「マキシミリアン・ルール」を適用することにより、承認されるのは以下の「正義の二原理」である。第一原理は、「各人は、他人の同様な自由と両立しうる限りでの最大限の基本的自由に対する平等な権利を持つべきである」というものであり、第二原理は、「社会的、経済的な不平等は、それらが()全ての人の利益になることが期待され、しかも()すべての人に開かれた地位や役職に割り当てられる、というように取り決められているべきである」というものである。(2)()は「格差原理」であり、()は「公平な機会均等原理」である。(446字)



8.暴力が倫理的に正当化されうる条件

 暴力ないし強制とは、他者をその意志に反してあることをさせたり、逆にさせなかったりすることであり、あるいは他者に害悪を与えるという目的をもった、人間の人間に対する直接的ないし間接的影響力の行使である。暴力は他者の毀損であるため、通常は倫理的に正当化されることはない。しかし、われわれは日常において暴力を行使せざるを得ないような切迫した状況下に置かれることがある。こうした場合、不当な暴力と正当化されうる暴力との間の境界はどこに位置するのだろうか。換言すれば、暴力の行使が倫理的に正当化されうるための条件とはどのようなものであろうか。暴力の行使を道徳的に正当化するための必要条件は、関係者が、彼が強制されることをするあるいはしない義務をもっていることである。しかし、これは用いられるべき最後の根拠であり、われわれは可能な限りの手を尽くして暴力の行使を抑制しなければならないであろう。(389字)


9.自然主義的誤謬と合成の虚偽

 「自然主義的誤謬」とは、事実判断から価値判断を導く論理的に不当な手続きのことである。例えば、功利主義の基礎づけにおいて働いているのがこの不当な手続きである。ほとんどの功利主義者は、「すべての人が快楽を望んでいる」という事実命題から、「快楽が善である」という価値命題を導出しているが、善という価値を「事実」の内に根拠づけることは自然主義的誤謬であり、論理的に不当だと言わざるをえない。

 また「合成の虚偽」とは、個々のものは真であるとしても、それを合成した全体に関しては偽になるという論理的な誤謬のことである。ミルが「最大多数の最大幸福」という功利主義の基本テーゼを導出する際に働いているのが、この合成の虚偽である。「すべての人は自分自身の幸福を望んでいる」という命題は真であるとしても、ここからミルが導出したような「すべての人は全体の幸福を望んでいる」という命題は帰結しない。ミルはここからさらに「全体の幸福は望ましい」という価値判断を導出したが、ミルはこの一連の推論において、「合成の虚偽」と「自然主義的誤謬」という二重の不当な手続きを犯しているのである。(477字)


10.功利主義の問題点

 自然主義的誤謬と合成の虚偽に関しては前問で言及したので、ここではそれ以外の問題点を採り上げる。

 古典的功利主義における快楽主義に対しては、快楽という語に対する言語分析によって疑義を唱えうる。快楽主義によれば、すべての者は快楽を欲する。そして、最高善とはすべての者が欲求するところのものである。ゆえに、快楽こそが最高善である。しかし、言語分析によって示されるのは、最高善として規定された快楽とは快楽一般ではなく快楽の対象(=欲求の対象)であるという洞察である。従って、上述の快楽主義の三段論法は空転しているのである。

 選好功利主義は、選好の可謬性と非社会的・病的な選好をどう考慮するかという問題に対して、「現実の欲求」と「情報を与えられた欲求」とを区別することによって対処しようとする。しかしこれに関しては、両者を区別することの困難と、それが道徳的エリート主義につながる危険があるという異議が挙げられる。

 さらに、ロールズによって唱えられた功利主義批判を挙げよう。ロールズによれば、功利主義を採用すれば、全体の幸福のために少数者の犠牲を強いるような選択を許してしまう。功利主義は分配原理を欠いており、正義の原理を説明することができないのである。(518字)