倫理学2 | autochromatics differencia

倫理学2


1.われわれはつねにすでに倫理ないし道徳のうちに生きているにもかかわらず、なぜ倫理や道徳について学問的に反省する必要があるのか。〈倫理〉および〈道徳〉という言葉の語源を参照し、道徳的判断に関する基礎づけの諸類型とその問題点を挙げながら、説明せよ。


 ヨーロッパ諸言語における倫理や道徳という言葉は、一方はギリシア語、他方はラテン語のうちに由来を所持している。倫理を意味する“ethics”(英)や“Ethik”(独)、“ethique”(仏)という語は、「住み慣れた場所」を意味するギリシア語“έθος”をその語源としている。ここから、「住み慣れた場所」(=共同体)において形成される「慣習・習俗」を意味するようになり、我々がそうした慣習のうちで生活を営む過程で内在的に形成される「性格」を意味するようになる。他方、道徳を意味する“moral”(英)という語は、ラテン語の“moralis”に由来するが、これも「慣習」を意味している。日本語の倫理や道徳という語も語源的には、共同体を構成している秩序、つまりは慣習や習俗を意味している。

 こうした諸語の語源から看て取れるように、「倫理」という語はなべて共同体において見出される習俗や慣習を意味しており、学問としての「倫理学」もひとまずはその学的領域をそうした慣習や習俗のうちに定置せざるを得ない。

 アリストテレスの立てた「いかに行為すべきか」という倫理学の探求すべき課題は、「いかなる規則に従うべきか」という問いでもある。なぜならば、我々は無意識的にせよ、常に何らかの規則に従って行為しているからである。ところで、我々の通常暮らす社会においては、一般に〈良い〉という言葉はその社会の慣習や習俗に適合した行為に与えられる。それならば、「いかなる行為に従うべきか」という問いは、自らの属する社会の規範に従うべきであるという答えに辿り着く。しかし、こうした答えは即座に社会的規範の多様性という相対的状況に直面せざるをえない。では、そうした社会的規範を離れた自律的な価値基準は存在するのだろうか。ここで、以上の議論を含め我々が行っている道徳的基礎づけの諸類型を検討してみることにする。

 第一に、事実を引き合いに出す論証。例えば「難民支援」などを道徳的であると主張する場合がこれに当たる。ここで提示される事実は、それの背景に一般的価値観ないしは規範が表明されている時には妥当であるが、偏見が表明されているときには妥当ではない。例えば、「ユダヤ人虐殺」はその背景に人種主義という偏見を備えているがゆえに、道徳的ではないとされる。しかし、規範と偏見の間に明確な線引きを施すことは困難である。「難民支援」の背景にある普遍的ヒューマニズムも一種のイデオロギーだからである。さらにこうした事実的妥当性の主張は行為それ自体の「よさ」を問うものではなく、事実と規範の乖離を埋めることは出来ないと考えられる。

 第二に、感情を引き合いに出す論証。これは、感情自体が受動的(passive)な性質のものであるため、それがいかに強烈なものであろうと、道徳的基礎とはなりえないのである。

 第三に、可能的結果を引き合いに出す論証。これはその行為によって生じてくる結果を根拠にする「功利主義」などの主張である。しかし、結果や目的によって行為は単純に正当化されえない。悪意を持った行為が結果として功利主義的価値に寄与する場合があるからである。

 第四に、道徳的基準を引き合いに出す論証。これに対しては上述のように、社会によって道徳的基準は多様であり、社会的規範はそれ自体相対的なものに留まるという問題点が指摘できる。

 第五に、道徳的権威を引き合いに出す論証。これは親や国家権力、古典、法律などの権威によって自らの行為を正当化する場合である。しかし、自らの行為は意図的なものである限り、その責任をいかなる権威にも預けることは出来ないのである。

 第六に、良心を引き合いに出す論証。我々は良心を誤りなき神の声のように見なしがちであるが、良心とは教育や社会的生活によって内面化された権威的規範に他ならないのではないか。だとすれば、良心に訴える論証は第五の道徳的権威を引き合いに出す論証と同様の問題点を抱えていることになる。

 以上、道徳的基礎づけの諸類型を概観してきたが、そのどれも我々に満足の行く結果を与えなかった。であるならば、我々はこうした諸類型を越えてさらに学問的反省を深化してゆく必要があるということになろう。(1685字)


2.強盗に強迫されて金庫を開けた社員の行為は、意図・自由・責任という観点からどのように記述され、評価されうるか。アンスコム(志向論者)と黒田亘(因果論者)の見解を参照しつつ答えよ。

 

アンスコムによる意図的行為の基準は、「それについて我々が「観察に基づかない知識」を持ちうるもののうち、「なぜ」それを行ったかということをも観察によらずに知ることができる行為」(プリントp.13)である。この基準に照らして評価するならば、金庫を開けるという社員の行為は意図的であり、従って自由な行為と見なされ帰責可能である。社員の行為はアンスコムの基準に適った自己知を有しているからである。

一方、黒田亘による意図的行為の基準は、「行為者自身の欲求と認識を原因として生じた行為」(プリントp.13)である。同様にこの基準に照らして評価するならば、金庫を開けるという社員の行為は非意図的であり、従って不自由な行為と見なされ帰責不可能である。なぜなら、黒田の意図的行為の基準にはアンスコムにはなかった「欲求」という概念が含まれているからである。社員の行為は強制されたものであり、自らの欲求に背いてなされたものなのである。

しかし、ある行為が非意図的であるということが、単純に帰責不可能であるということを帰結するのだろうか。オイディプスの老人殺しと父殺しの間の揺らぎというものを考慮するならば、この帰結関係は単純には主張できないだろう。老人殺しと父殺しは同一の行為についての記述ではあるが、オイディプスの欲求の有無は両者に対して異なる。従って、同一の行為について、一方は帰責可能で、もう一方は帰責不可能であるということになる。基礎行為が欲求に基づき、従って黒田の基準によれば意図的であった場合、意味的生成の関係項についてそれぞれ意図的であるかどうか吟味しなければならないということであろう。ただし、今回の社員の行為については基礎行為が欲求に基づいていないため、意味的生成の関係項すべてにおいて非欲求的であるということができよう。この点に関しては、社員の行為は帰責不可能ということになる。

さらに考えてみよう。そもそも欲求というものを意図的行為の基準に繰り入れる場合、ある行為に欲求が伴っているかどうかを反省的に知りうるのは行為者のみである。意図を語る際に行為者が特権的な立場にあるというこうした理解は、意図が心的な現象であり、行為者のみによって知られるという前提に立っている。こうした意図に関する私秘的な前提に立つ限り、社会的責任に対する帰責について公共的に問うことは一定の限界を持たざるを得ないだろう。

では、アンスコムの基準に従った場合について考察を進めてみよう。このとき社員の行為は意図的行為であるが、問題は他行為可能性が選択可能なものとして残されていたか、ということである。金庫を開けるという社員の行為は〈自分の命を守る〉という意図の下でなされた自発的行為である。ある行為が意図的であることが単純に帰責可能であることを帰結するならば、この社員は責任を問われなければならない。しかし、他行為可能性が論理的には存在していたとしても、それが現実的には選択不可能であったとすれば、社員の行為は意図的ではあっても不自由なものであり、従って帰責不可能であるということになる。この場合、他行為可能性とはすなわち開錠の拒否である。しかし、開錠の拒否が強盗から殺害されること、つまり死を意味しているとすれば他行為可能性は現実的には選択不可能なものである。であるならば、アンスコムの基準に照らして意図的行為であるとされても、社員の行為は不自由なものであり、免責されるということになる。(1428字)


3.「いかなる仕方で行為すべきか」(アリストテレス)が倫理学の問いであるとすれば、歴史主義や進化論的倫理学はこの問いに対して適切に答えることができるか。「人間の本性」と「自然主義的誤謬」という概念を使用して答えよ。

 

 一般に、歴史主義とは真理・法・倫理など、すべての思想とすべての価値を、特定の歴史的時期、特定の文化の所産として捉え、歴史的コンテクストで了解する歴史相対主義を意味する。(プリントp.17)歴史主義は単線的な進歩やメタ歴史的な普遍性を拒否し、歴史の多様性・個別性や非単線的な発展を主張する。こうした歴史主義の規定からすれば、歴史を、精神の自己展開として単線的に捉えたヘーゲルや、生産力と生産関係の矛盾を主要な機軸とした社会構成体の弁証法的発展と捉えたマルクスが歴史主義に属するかどうかは疑問があるが、ここでは授業の内容に沿って、ヘーゲルとマルクスの歴史観に的を絞って論述を進めたい。

 ヘーゲルによれば、世界史とは絶対精神へと至る精神の自己展開である。そして、「世界精神の理性的で必然的な過程」(プリントp.17)に寄与した民族を世界史的民族とし、その下に現れる国家を世界史的支配国家とする。ヘーゲルは、自らの属する時代(ゲルマン的支配国家)を自由の実現された、絶対精神の自己展開の完結した時代と捉えており、そこでは「世界精神が、自己意識や主観性の内部に現れる客観的真理と自由との宥和に達して」(プリントp.17)いる。ここには目的論的な歴史観が表出されている。

 次に、マルクスによれば、歴史において規定的な要因は現実生活における生産と再生産であり、こうした生産関係すなわち経済体制としての下部構造が、上部構造としての政治、法、道徳に関する意識を規定する。従って、経済体制の変化(例えばプロレタリアート革命)が道徳的価値基準など上部構造の形態の変化を誘引する。

 では、こうした歴史観の問題点とは何だろうか。歴史主義はその前提として「歴史が人間の在り方を全面的に規定する」という主張を為す。しかし、歴史を内在的な理性の外化し、自己実現をはかっていく過程として捉えたヘーゲルはこうした主張とは一線を画するように思える。さらに、歴史における下部構造が上部構造を「全面的・直接的」に決定するという主張はマルクス自身の見解というより、その後の俗物的マルクス主義の主張であろう。こうした歴史主義の見解については人間の在り様は歴史によってのみ規定されるものではない、という反論が上げられうる。「人間の本性」というものを否定し、人間の在り様を歴史や文化に対して相対的であるとする単純な相対主義は、我々の行為について指導的な基準を与えてくれはしないのである。ヘーゲルやマルクスの歴史観については、その目的論的な性格に対して反論が挙げられよう。歴史的目的論によれば、歴史は目的へ向けての連続的なひとつの進歩過程である。こうした目的論に対して、歴史が連続的なものであるとすれば、「歴史は意識にとっての特権的な隠れ家となる」(中山元著「フーコー入門」ちくま新書p.113)というフーコーの批判を想起すべきだろう。

 つぎに、進化論的倫理学について論述したい。ダーウィンによる道徳起源論の概略は以下の通りである。人間を含む社会的動物は、社会的本能によって仲間との交わりに対する愛好を持つ。従って、反社会的行動に対する不快感をもち、そうした不快感が他の成員との間で一致し、反社会的行動を退けることで個体と共同体との間に密接な関係が生じる。ダーウィンは、この社会的本能から欲求や利害関係を超えた「道徳感覚」や「良心」が発生すると論ずる。

 また、スペンサーは進化論的倫理学を構想したが、これは進化論にもともと含まれていない「進化」や「目的」の概念を導入しているため、その命名にも関わらず進化論と整合的ではない。(岩波哲学思想事典「進化論」)

いずれにせよ、道徳の問題を発生論的に説明することは、道徳の妥当性を問うこととは別のものである。発生的事実によって規範的妥当性を説明することはある種の「自然主義的誤謬」であろう。

以上の論述より明らかなことは、倫理学としての歴史主義やヘーゲル、マルクス、進化論的倫理学はアリストテレスの問いに対する答えとしては不十分であるということである。(1662字)