倫理学1 | autochromatics differencia

倫理学1


1. 倫理的相対主義とその問題点

 一般的に「相対主義」とは、唯一の絶対的かつ普遍的な真理の存在を否定し、真理の多元性ないし複数性を認め、それぞれの真理が互いに対し相対的であるとする主張である。従って、「倫理的相対主義」とは絶対的で普遍的な道徳的原理ないし基準の存在を否定し、道徳的基準が個人や集団、文化、社会、時代に対して相対的であるとする主張と解すことができる。

しかし、倫理的相対主義には以下の問題点が指摘しうる。まず、相対主義的主張を貫徹しようとするならば、相対主義の命題それ自身の真理性が相対化されるという、「自己例外化の誤謬」が挙げられる。また、社会的ないし文化的相対主義は、その前提として、個人の属す集団がそれ自体として同定されていなければならないが、こうした集団的アイデンティティの存在主張は「本質主義」ではないかという点も指摘しうる。さらに、道徳的価値基準が時代や社会や個人に対して相対的であり、多様であるということは事実だとしても、それは絶対的な唯一の道徳的基準の否定についての積極的な立証にはなり得ないという点も挙げられる。(454字)


2. 情緒主義とその問題点

 情緒主義の系列に属する哲学者としては次の三人の名が挙げられよう。ヒュームは、道徳的命題は真偽を語ることの出来るものではなく、感情や意志は理性とは別の次元に属し、道徳は感情に依存すると唱える。また、エイヤーは同様に、道徳的命題は真偽を確定することが出来ず分析不能であり、主体の感情表現や、態度・意志の表明、または他者の感情を喚起するという役割を持つのみの「擬似命題」であると主張する。スティーブンソンは、こうしたエイヤーの試みを更に追究する。彼によれば、倫理的価値命題は「記述的意味」と「情緒的意味」の双方を持つ。例えば、「これは善い」という主張は、「私はこれを是認する。君もそうせよ」という二つの部分に分析される。後者が「情緒的意味」であり、それは「擬似命令的機能」を持つ。つまり道徳的命題は、他人の態度の変更を意図した「道具主義」的なものなのである。

 こうした情緒主義に対しては、他人を自らの操作の対象(=手段)として扱い、究極目的としての人格という他者の在り様を抹消するものであるという批判が考えられよう。(454字)


3. 自然主義とその問題点

 自然主義とは、正義、善、義務などの道徳的概念が、経験的(自然的)事実によって定義可能である、ないしはそれに還元可能であるとみなす立場のことである。例えば、ある社会で広範に通用している道徳的基準を、普遍的な真の道徳的原理とみなす場合がこれにあたる。ある種の功利主義やプラグマティズムが古典的な自然主義として挙げられよう。

 自然主義に対する批判としては、ヒュームがその嚆矢である、ムーアによって定式化された「自然主義的誤謬」論が有力である。ムーアによれば、自然主義は事実命題から倫理的価値命題を導出するという、存在から当為への論理的飛躍を行っており、これは倫理的命題の性質からして誤謬である。倫理的概念は単純で分析不可能であり、定義不可能であって、直観のみがそれを把握しうるというのがムーアの立場であった。この立場からすれば、「快楽は善である」など経験的事実(=ここでは快楽)によって道徳的概念に定義づけを与える自然主義は誤謬である。(414字)


4. 形容詞〈良い〉(good)の論理的性質

 ギーチによれば、形容詞的用法において〈良い〉という言葉は「属性的形容詞」としての性質を担っている。これと対置される他の性質として「述語的形容詞」がある。これは例えば、①「これは〈茶色い〉机である」という文に表れる〈茶色い〉という形容詞である。この文は、②「これは茶色い」+③「これは机である」という二つの文の合成と等価であり、逆に言えば、文①は文②と文③に分解しうるのである。つまり「述語的形容詞」は主語に対して、被形容詞とともに同じ資格で述語化されうる。一方、「属性的形容詞」に対してはこうした操作が不可能である。「S氏は良い教師である」という文は、「S氏は教師である」+「S氏は良い」という二つの文の合成と等価ではない。属性的使用における〈良い〉という語は、具体的対象ないしその範疇がある「Fiat」(ラテン語、広義では事態が現実化することを要求・懇願することを示す)に対応しているという関係を表現し、両者を取り結ぶ紐帯の役割を果たすのである。(424字)


5. 行為の生起に関するデカルト的理解とその問題点

 デカルトの意志論においては、身体の行為は精神の意志作用によって生ずる。つまり、精神の意志作用が、精神と身体の二元的実体を架橋する器官である松果腺を通じて身体に作用し、その結果として行為としての身体運動が生ずるのである。従って人間の行為は自らの自由な意志によって生起する。ここに単なる機械とは異なった人間の最高の完全性が存ずるとデカルトは述べている。

 こうしたデカルトの意志・行為論を、ライルは「デカルトの神話」として批判している。デカルトの心身二元論では、身体は機械的物理法則に従う延長を持った空間的物質とされるのに対し、心は非空間的で機械論的物理法則にも従わないものとされる。こうした心の捉え方はあたかも「機械の中の幽霊」のようであり、こうした心身論はカテゴリー錯誤を犯している。さらに、我々の日常的行為には意志作用の働いていない行為が多数存在する。また、意志作用が行為の原因ならば、意志作用も何らかの原因の結果であると考えうるのであり、これは無限後退に陥る危険性を秘めている。こうした点もデカルトへの批判として挙げられる。(462字)


6. 基礎行為と行為の関係に関するアンスコムの説明

 アンスコムによれば、意図的行為とは「それについて我々が「観察に基づかない知識」を持ちうるもののうち、「なぜ」それを行ったかということをも観察によらずに知ることができる行為」(プリントp.13)である。こうした「意図的行為」の根底にはそれ以上遡及不可能な「基礎行為」が存在する。例えば、「部屋の明かりを点ける」という意図的行為についての遡及は、「スイッチを入れる」へと至り、さらにそれ以上他の記述に依存不可能な「指で押す」という身体の一部を直接動かす「基礎行為」へと収斂する。

 同一の指示対象を持つ行為については多様な記述が可能であり、基礎行為と行為の関係は「手段―目的関係」にある。還元すれば、他の行為は基礎行為を遡源とした意味的生成の関係の内にあるのである。例えば、オイディプスにおいて、「手を振り下ろす」という基礎行為から「杖で老人を殴る」、「老人を殺す」という意図的行為が、さらには「実父を殺す」という非意図的行為が生成する。こうしてより複雑な高次の行為はその根底に基礎行為を包蔵しているのである。(451字)


7. 意図と行為の関係に関するデイヴィッドソンの説明

 デイヴィッドソンは行為に関して、デカルト的な心身二元論を排し、物と心の非法則論的一元論という立場を採っている。彼は、行為記述に際しては必ずしも因果法則に従う必要はないとする。しかし、行為を記述しその理由を説明する際には、その理由が特定の行為の理由である為に因果了解を前提していなければならないと考える。従って、行為においては心的現象と物的現象を峻別できず、一元論的ではあるが、だからといって心的現象を物的現象に完全に還元できるわけではないのである。

 さらに彼は、意図の記述の多様性に基づいて、行為の原因を「主たる理由」として多数列挙している。「主たる理由」としては「欲求・欲望・衝動・道徳的見解・美的基準・経済的価値判断・社会的慣習・個人的ならびに公共的な目標や価値・一時的な出来心」などの行為に対する賛成的態度、さらに「行為に関連した信念」などが挙げられよう。

 例えば、大学の講義で挙手をする場合、「主たる理由」としては、発言をしたいという欲求、挙手が発言の意思表示を意味するという慣習、あるいは挙手せずに発言することはマナー違反であるという道徳的見解などの行為に対する賛成的態度、さらには、挙手が発言の意思表示を意味するということを知っているという信念などが挙げられよう。(536字)


8. ノモスとピュシスに関するソフィストの見解

 「ノモス」は「人為」ないしは「慣習・法」を意味し、対概念である「ピュシス」は「自然」を意味する。ソフィストたちは社会における正義・善・美などの絶対的価値基準は存在せず、ポリス間でそれらの支配的な基準が相互に異なるように、それぞれのポリスや個人に対して徳の基準は相対的であると主張する。その基準は自然によって基礎づけられたピュシス的(自然的、従って不変的)なものではなく、ノモス的(人為的、従って可変的)なものであると彼らは説く。こうした主張の端的な表明はプロタゴラスの「人間尺度命題」であろう。

 こうしたソフィストの見解に対し、ソクラテスは徳の価値基準は「ピュシス」によって定まっている絶対的なものであると主張した。しかし、ソフィストの中にもある種の絶対主義を採用した論者はいたのである。ソフィストのひとりであるトラシュマコスによれば、強者が自らの欲求を貫くことが真の正義であり「ピュシス」に適ったことである。上述の事柄を踏まえれば、ピュシス―ノモスの対立の下に、ソクラテス―ソフィストの対立を併置する一般的定説は事態の単純化であることが判るだろう。(474字)


9. 社会契約論

 社会契約論とは、政治社会の構成原理を個人間の相互契約に求め、政治権力の正当性を説明しようとする一連の理論の総称である。近代において社会契約論を切り拓いたのは、ホッブズ、ロック、ルソーの三人である。社会契約論を準備した背景的要因はデカルト以降の自律的な近代的自我を擁立する個人主義精神であった。それぞれの思想家は、「未開社会」の「発見」によって触発された思考モデルとして「自然状態」や「自然権」を想定し、そこからいかにして共同体が社会契約を通して形成されるかを問うことにより、近代市民国家の構成原理、さらには実定法の根拠を描き出そうとした。彼らが問うたのは自由・平等という価値を持った主体の確保の条件であり、政治の主体としての国民の描出であった。

 こうした社会契約論の思考法は、現代では、原初状態を通じて政治的正義の原理を基礎づけたロールズ、国家権力の限界を指弾し、夜警国家としての最小国家を説いたノージックなどに継承されている。(413字)


10.ミュンヒハウゼンのトリレンマ

 知識の絶対的な基礎づけを探求し、実現しようとする〈基礎づけ主義〉に対し、H・アルバートは「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」を提唱し、こうした知識の基礎付けの試みが不可能なアポリアであることを示した。

 アルバートによれば、知識の基礎付けの探求は以下に挙げる三つのアポリアの内どれかに撞着せざるを得ない。第一に、基礎づけを求めれば、その基礎をさらに基礎づけるものへ、その基礎をさらに基礎づけるものへ……という風に無限後退に陥らざるを得なくなる。第二に、他のものによって基礎づけられたものを基礎づけに使わざるを得なくなるという風に、基礎付けが循環的ないしは円環的な過程になってしまう。第三に、無限後退や循環を避けるため、それ自身は基礎づけられていないものに依拠することによって独断的に基礎づけを断行せざるを得なくなる。(岩波哲学・思想事典「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」参考)デカルトの神の存在論的証明や、ロックの経験論などはこの第三のケースに当たるだろう。(424字)