フランスにおけるニーチェ受容――フーコー | autochromatics differencia

フランスにおけるニーチェ受容――フーコー


 フランス現代思想の潮流の中で、ニーチェの系譜学(genealogie)の着想を最も深層において享受し、ラディカルな方向へと推進した思想家として、ミッシェル・フーコー(19261984)を挙げることができる。今回の講義では、主に『ニーチェ・系譜学・歴史』という1971年の論文に着目しながら、まずこの論文がフーコーの思想展開においてしるしづけた折り目を読解し、次に論文内容の概説を試みたい。


ニーチェの系譜学

 19世紀末まで、「系譜学」は元々歴史の補助学として位置付けられていたが、ニーチェによって哲学の方法論的概念として独自に編み上げられ、新たな意義を付与される。系譜学の方法論の詳細は後にフーコーの論文を通じて触れることになるが、さしあたりここではその方法論の根幹を簡単に示しておきたい。ニーチェは『道徳の系譜』の序文でこう述べている。「われわれは道徳的諸価値の批判を必要とする。これら諸価値の価値そのものがまずもって問われねばならぬ。―――そのためには、これら価値を生ぜしめ、発展させ、推移させてきたもろもろの条件と事情についての知識が必要である。・・・そのような知識は、今までありもしなかったし、求められさえもしなかった。これら<諸価値>の価値は、所与のものとして、事実として、あらゆる疑問を超えたものとして受けとられてきた。また、<善人>を<悪人>よりも価値高いものと評価し、およそ人間なるもの(人間の未来をも含めて)にかかわる促進・効用・繁栄という点で善人を高く評価することについては、これまで露いささかも疑わず、惑いためらうことも見られなかった。ところで、どうだろう? もし、その逆が真理であるとしたら?」

 ニーチェは、従来の道徳的価値判断の査定を企てる予備段階として、従来の価値がいかなる条件や事情の下に案出されてきたのかを問う。こうした問いの背後にあるのは、道徳的善悪の永遠不変性の否定であり、善はその起源から一貫して善であったわけではないという不連続的な歴史観である。歴史は相拮抗する力の戦いの歴史として捉えられなければならない。道徳の起源にあるのは絶対的真理や何らかの実体や存在ではなく、様々な力の非均衡的な多様性であり、互いに血と戦慄を喚起しあう、支配や位階を求める力と力の衝突であり乱舞である。系譜学は、「典拠を挙げうる事実、現実に確証できる事柄、実際にあった事実」という実証的な素材を典拠として、これらの「人間の道徳的過去の永い判読の困難な象形文字の全体」としての「灰色のもの」についての冷徹な解釈を通じて、起源に関する形而上学を解体し、新たな視圏を切り開く試みである。



✡フーコーの考古学

 フーコーは『言葉と物』(1966)、『知の考古学』(1969)の二著作で、「考古学」(archeologie)という方法論を展開している。フーコーは自身多大な影響を受けたニーチェの系譜学と、G・カンギレムの「概念の歴史」という着想に影響され、独自の考古学的方法論を編み上げたといえる。

 では、「考古学」とはどのような方法論なのだろうか? 考古学は、「現在」を歴史分析の特権的な場とし、そこから俯瞰した理性の統一的で単線的で連続的な進歩を描き出すことはない。考古学が問うのは、ある時代の認識と理論そのものではなく、そうした認識や理論がどのような無意識的で領域横断的な秩序の空間から出発しているのか、ある時代の知がどのような潜在的な構造に根を下ろし、その場を自らの「可能性の条件」としているのか、という問題である。フーコーはこうした構造を、ギリシア語で「知」を意味する<エピステーメー>と名付ける。ある時代の書物や発言は、それらが異なる分野のものであろうと、共約可能で歴史規定的な固有の根本的基盤、すなわち<エピステーメー>を有している。


✡『言葉と物』のラフ・スケッチ

16世紀以降の西欧近代(広義の近代)に焦点を絞るならば、そこには互いに断絶した三つの<エピステーメー>を見出すことができる。フーコーはニーチェが発掘したように、歴史の中に潜む不連続性を洞察する。ある時代の中にいる者は、その固有の<エピステーメー>によって規定された思考の存在様態を持ち、他の時代の<エピステーメー>からは断絶されている。こうした断層を、継起した時代順に見てみると、16世紀から17世紀半ばまでの「中世とルネッサンスの時代」、19世紀初頭までの「古典主義時代」、それに続く「近代」(狭義の近代)という三つの局面が見出される。

 ここで『言葉と物』の展開を要約することにより、<エピステーメー>の具体的な様相を素描してみよう。

  第一の「中世とルネッサンスの時代」の特徴は<類似>という概念にある。この時代においては人間と物、物と物の関係は、すべて類似関係というまなざしによって秩序立てられ、理解される。すべての物は類似関係によって織りなされ、世界の中で位置を占める。類似関係は外部に見えるしるし(外徴)によって読みとられる。こうして、世界は類似の鎖を読みとってゆくための開かれた巨大な書物となる。物=言葉であり、言葉=物なのである。解釈学と記号学によって解読すべき書物である世界は、無限に類似の連鎖を続けてゆくことができるという点では過剰ではあるが、それが想像力に基づいた単なる解釈に過ぎないという点では貧困である。

 第二の「古典主義時代」では、もはや「類似性」は知を築くための有効な手段とはなりえず、むしろ錯誤と狂気のしるしとなる。それに替わって、この時代には「同一性と差異性」という概念が知を導くこととなる。事物の認識は、推論による同一性と差異性の秩序付けに従って展開する「(タブロー)」の構成へと転位する。この秩序づけは「マテシス」(代数学の明証性と演繹性をモデルとした諸学の統一化、普遍化の企て。デカルトやライプニッツを念頭に置いた言葉)と「タクシノミア」(分類学。リンネなどの博物学に代表されるような、万物の普遍的分類および命名による記号(シーニュ)の体系の企て)によって実現される。単純な自然を秩序づけることが問題であるときには、人は「マテシス」に訴え、より複雑な自然(経験的な表象一般)を秩序づけることが問題であるときには、人は「タクシノミア」に訴える。古典主義時代において「一般文法」(記号(シーニュ)についての学)、「博物学」(自然の連続性と錯綜状態を分節化する特徴(カラクテール)の学)、「富の分析」(交換を可能にし、様々な必要や欲望の間に等価関係を設定せしめる記号(シーニュ)についての学)が可能だったのも、こうした特有の<エピステーメー>を共有していたためである。

第三の「近代」において、古典主義時代を秩序づける様式であった(タブロー)の構想は解体し、知は新たな空間に宿る。古典主義時代では、知の統合点は物の表象空間を代表的に写し取り、秩序づける「表象の表象」としての「言説」であった。近代に至り、初めて「人間」が知の統合点として浮上してくる。もはや、近代の表象は物の秩序の正しい表現ではなくなり、秩序認識の主体である人間への問いが初めて前景化する。認識の主体であると同時に客体であるところの「人間」というカント的な概念は、実は近代の発明に過ぎない。近代の知は二つの道を歩む。ひとつは表象の手前、認識主体の中に新たな秩序を探求する、カントの批判哲学という道である。もうひとつは表象の向こう側に再度、物の秩序を探し直す道、これは「生物学」、「言語学」、「経済学」の誕生をもって開始される。これらの学問によって発見されたのが、生命、言語、労働の実定性としての人間の有限性、生き、話し、働く経験的=超越論的な人間という概念である。

こうした近代の<エピステーメー>の中で、一連の「人文諸科学」(心理学、社会学、文化学など)が登場する。これらは生物学、言語学、経済学の傍らに寄り添っている限りで存在できるものに過ぎず、実証性を持つが、科学性を持たない。

しかしながら、誕生した「人間」は短命であった。人間への問いをその核心に据えた近代という時代は、終焉を迎えつつあるとフーコーは診断を下す。フーコーは三つの学問において人間の終焉が宣言されていると考えている。フロイト・ラカンの精神分析、レヴィ=ストロースの文化人類学、そしてソシュールの構造主義的言語学である。これらは無意識、歴史、言語において知の可能性の条件を示している。これらは人間の外部の限界をなすもの、人間の実証性を醸成するものを問いながら遡ってゆく。簡単に言えばそれは、「人間が認識されることを可能にしているまさにそのものを『さらけ出す』ことによって危険にさらす」のである。近代の<エピステーメー>が崩壊したときには、新しい発明である「人間」は、「波打ち際の砂の上に描いた顔のように、消滅するであろう」。




✡考古学から系譜学へ

 『言葉と物』に続く『知の考古学』では、考古学についての理論的考察の深化が目論まれている。ここではその内容に触れることはしないが、この『知の考古学』執筆中の1968年、フーコーは五月革命を異邦の地で経験する。フーコーはこの時、パリにはおらず、チュニジアの首都チュニスの大学で教鞭を執っていた。フーコーと政治的実践との関連で着目すべき点は多いが、ここで注目したいのはフーコーが目の当たりにし感銘を覚えたある政治的経験である。チュニジアの学生運動に立ち会っていたフーコーは、フランス本国ではもはや政治的に革新的な意味を喪失していたマルクス主義が、チュニジアでは人々の運動を支える基盤となり、政治的行動の信念を形成しているという事態に出逢った。フーコーは後の対話で、フランスではマルクス主義が生気を失いアカデミズムに堕していたことに言及しながら、こう述懐している。


・・・チュニジアでは逆に、誰もが印象的なほどの輝きと、激しさと急進的な強さをもって、マルクス主義を主張していました。若者たちにとっては、マルクス主義は、単に現実を分析するためのよき手段ではなく、同時に一種の倫理的なエネルギー、まったく瞠目すべき実存的な行為だったのです。・・・私にとってのチュニジアの意味は、政治的な討論に加わることを迫られたということです。きっかけは、フランスの1968年5月ではなく、第三世界の国での1968年3月のことでした。


 フーコーは『言葉と物』の中で、「マルクス主義は19世紀の思考において水のなかの魚のようなものであって、それ以外のどこででも呼吸するわけにはいかなかったろう」と述べていたが、この窒息し生命力を喪失したはずの思想が、何故これほど人々の行動を突き動かす原動力となりうるのか、このことにフーコーは驚嘆する。

 この体験はそれまでのフーコーの考古学という方法論に新たな視点の導入を要請するだろう。ある思想がエピステーメーの布置において確保していた思想的な価値を失い、生命を枯死させていたとしても、その思想を真理として意志し、真理として行動する人々にとっては、生命力の枯渇した思想も別の生命を帯びるようになる。ある思想がエピステーメーの中で占めている位置によって真理を裁断するのではなく、誰がその思想を信じ行動するかという視点からその主体を分析する方がより重要性をもつのではないか。<真理が真理として成立する条件>への問いから、<真理を語る主体>という問いへ、重心が推移してゆくのである。こうした問いがフーコーを、思想を真理として信じる主体の分析へ、そしてそれを通じた真理の分析へと移行させる。実はこれは、ニーチェの系譜学の観点そのものであった。

 このような問いの変奏は、方法論そのものの組換えを促さずにはおかないだろう。『ニーチェ・系譜学・歴史』という論文が書かれたのはこの時期であり、そこにおいてフーコーは、ニーチェの系譜学を再考し、自らの方法論として作り替えたのである。この論文はそれまでの考古学的歴史観の総括的表明であると同時に、新たな問いに貫かれた方法論の系譜学的深化を果たす綱領的地位を占めるものである。


✡フーコーの系譜学

 では、フーコーがニーチェの系譜学から切り拓いた方法論的視野、そして真理の理論とはどのようなものなのだろうか? 『ニーチェ・系譜学・歴史』の読解を試みることにより、その問題を炙り出してみよう。


 フーコーは系譜学の作業を次のように述べる。「単一な究極指向性のまったく外に、様々な出来事の独自性を見定めること、それらの出来事を、最も予期しないところ、歴史などもたないということになっているもの・・・の中に探ること、それらの出来事の回帰を、進化のゆっくりした曲線を跡づけるためにではなく、それらが多様な役割を演じた多様な場面を再発見するために把握すること・・・」。こうした系譜学の意味を明確にするために、フーコーは「起源」(Ursprung)と「由来」(Herkunft)を対照する。起源を問うことは、物の本質や純粋な可能性、絶対的真理を模索することであり、形而上学的な方法を採用することである。系譜学はそれとは逆に、それらの本質や真理がどのような歴史的な経緯にしたがって形成されてきたのかを分析する。真理という概念はこの歴史性を隠蔽し、物の本質であるかのように擬装する。

 系譜学はこの真理の欺瞞性を暴露する。真理とは絶対的なものではなく、様々な力関係の競合と対立、階級闘争と支配の帰結である。「人間が他の人間を支配する、するとそこから諸価値の区別が生まれてくる。階級が他の階級を支配する、するとそこから諸価値の区別が生まれてくる」。

 真理は中性的で無害なものではなく、暴力的なものである。真理は「論駁されえないという特徴をもつ一種の誤謬」であり、闘争や支配のための武器であり、様々な力が湧き上がり抗争する力動的な舞台である。系譜学はこうして伝統的な真理という概念を解体するのである。

 系譜学は歴史の形而上学的な見方の源泉とも言うべき「起源」に対して「由来」を対置する。由来においては「微妙で、独特な、個の下に隠れている様々な痕跡、個の中で交錯しあい、解きほぐしがたい網目を作っていることもありうる痕跡をすべて見定めること」が問題であり、従って、「由来の複雑な糸のつながりを辿ることは、起こったことをそれに固有の散乱状態のうちに保つことである」。由来の探求は、ものの根源に真理や存在を見定めるのではなく、「偶発事の外在性」を発見する。さらに、系譜学は起源にあるとされるものの同一性や一貫性をも批判する。系譜学は我々自身の系譜学でもあり、形而上学が想定する自己同一性を崩壊させる。「由来の分析は自我を解体させ、その空虚な総合のあとに今は失われた無数の出来事をはびこらせることを赦すのである」。

以前に述べたように、系譜学は歴史の連続性を否定し、逆に歴史を貫くあらゆる不連続性を曝けだす。また、系譜学は歴史の目的論とも対立するものである。由来の探求は、不動だと信じられてきたあらゆるものを、偶然的な生成の中にふたたび導入するのである。

 また、由来は肉体と結び付いている。肉体は「様々な出来事の刻み込まれる平面」であり、「自我の解体の場」である。肉体は歴史性と無縁ではなく、「その生と死のうちに、その力と弱さのうちに、あらゆる真理とあらゆる誤謬の報いを保持している」のであり、「由来の分析としての系譜学は、肉体と歴史の結節点にある」のである。我々は、肉体は純粋に生理学的な法則性によってのみ規定されており、歴史の規定性を逃れるものと思いがちである。しかし、実際には「肉体は一連の規則の中にとらえられており、それによって形成される」。ここには後にフーコーが『監獄の誕生』によって展開する<身体論的な主体>の問題圏への萌芽が看取されうるだろう。

 系譜学は、常に歴史的な視点に固執することによって、超歴史的な観点を導入するすべての試みを拒絶する。それらの試みは「時間の外に支点をこしらえ」ることにより、「歴史自身の背後にあるものに世界の終わりの視線を投げかけ」、歴史の外部に永遠の真理、不死の魂、自己との同一性を維持する意識を想定するものである。

系譜学はこれを排除するために、パースペクティブ主義を採用する。これは、いかなる客観的認識をも否定し、自らがある展望に立っていることを認めるものである。真理は常にそれを語るものの視点からみられなければならず、系譜学者は自分の視点が位置している場所に対して自覚的でなければならない。真理は常に、知への意志によって貫かれているからである。


✡終わりに

 こうした真理の理論において、ニーチェは「真理とは何か?」という形而上学的な問いを否定し、「真理を語るのは誰か?」という政治的な問いへと問いそのものを転換させた。フーコーがこのニーチェ論から抽出したのは、人々を突き動かす駆動力としての「真理」は、考古学とは異なった分析を必要とするということである。考古学は、正しい命題の科学的な真理性は、エピステーメーによって、すなわち歴史的なア・プリオリによって決定されることを明らかにした。しかし、現実の社会において「真理」を意志する主体の内的メカニズムを解明しない限り、時代遅れとみなされていた思想が、なぜ生命力をもち人々を行動へと駆り立てうるのかを分析することはできないのである。従って、そのような問いには、社会における様々な主体間の権力関係、そして、社会においてそうした主体が形成されるプロセスの解明が不可欠となる。

 ニーチェ論によって得られた系譜学が、考古学とともにフーコーの以後の分析における方法論として駆使されることになる。フーコーは自己を変化させていくことを思考の方法としていたかのような哲学者であり、他にも幾つもの転換点を見出すことができるが、ここまで示してきた転換点の向こうに、以後の著作によって展開される「権力の主体」、「性の主体」、「実存の美学」といった問題圏が位置付けられよう。