理性の自己言及的不可避性 | autochromatics differencia

理性の自己言及的不可避性


1. 主観-客観の二極性


 主観的な観点と客観的な観点をめぐる対立は、哲学上の多彩な問題領域を貫く問題編成として繰り返し登場する。倫理学的・認識論的・形而上学的といった様々な主題群の多くにおいて、何らかの形でこの主-客の対立が見出されるのであり、したがってこの問題に対して一般的な形式を与え、何らかの仕方でこの対立を調停する視座を見出すならば、そこから個々の主題を解きほぐす突破口が開けるはずである。トマス・ネーゲルはこうした見通しのもとに、首尾一貫した粘り強い思索を続けている1

 主観性と客観性という区別は確固とした二項対立的なものではなく、二極的かつ相対的なものであるということに、ネーゲルは注意を促している2。一方の主観性の極としての特定の個人的観点から出発し、客観性の増大へと向かう方向は、共同体に内在的な観点、一般的な人間的観点、物理科学的な観点へと進み、他方の客観性の極である「可能な限り世界内のどこからの眺めでもないような世界の捉え方(=The view from nowhere)」3に達する。主観性と客観性の対立はこうしたスペクトル上のいずれの二点間においても起こりうるのである。客観主義者は主観的なアスペクトを還元・排除・併合といった戦略によって客観的な記述により宰領しようと欲し、主観主義者は内的なパースペクティヴからの還元不可能性・脱出不可能性を主張することによって客観主義に抵抗する。

 ネーゲルは主‐客の問題への準備的なスケッチにおいて、こうした対立状況に対し、他方を排除ないし包括しようとする極端な主観主義と客観主義のいずれにも与することなく、次のような診断を下す。「唯一のとりうる道は、飽くことなき客観性への要求に抵抗し、次のように考えるのをやめる道、すなわち、世界とその中でのわれわれの立場の理解が前進してゆくのは、その立場から脱することによってであり、その立場から見えるもののすべてを単一のより包括的な概念構成の下へ包摂することによってである、と考えるのをやめる道である」4。どのような主観的なものもそれが議論の対象となる限り「公共的・間主観的に接近可能」5であり、どのような客観的なものも「本質的に部分的でしかありえない」6のであるから、主観的観点と客観的観点をどちらか一方へと包摂することは不可能なのであり、単一の観点からすべてを記述可能な単一の世界は存在しないのである。したがってネーゲルは、主観の側へと客観性を回収してゆく観念論も、主観性を包摂ないしは消去してゆく客観主義的対立物(例えば行動主義的心理学や心の哲学における消去主義)も同時に批判するのである。

このようにネーゲルは主-客の二極性における対立する諸観点の共存、つまりは世界の多次元性を受容しつつ、可能な調停へ向けて考察を押し進めるのである。世界の多次元性の承認というネーゲルのこの基本的立場を念頭に置きつつ、以下では “The Last Word” における主観性と客観性の問題へと考察を進めよう。



2.理性の回避不可能性


 “The Last Word” の第二章 ‘Thought from the Outside’ において、ネーゲルは主観主義的・相対主義的な戦略に対して、理性の自己言及的な回避不可能性を軸に、理性の普遍性を擁護する議論を展開する。

 われわれの「心」あるいは「思考」を外的な観点から説明する方途として、心的現象を外的刺激とそれに対する反応行動の関数として捉える行動主義的心理学、心脳同一説を標榜しつつ、心的現象に関する報告文(「私は奥歯が痛い」)を脳機能に関する言明(「大脳のC神経繊維が発火している」)によって排除しようとする消去主義、科学的信念などを文化的・社会的に構築された偶然的なものと見なす構築主義などが挙げられる。

 このうち行動主義的心理学に関しては、われわれが受容する「感覚」なるものはモザイク的な「刺激」からなるのではなく、要素的な刺激の総和には還元しえない構造化された「ゲシュタルト」からなるのであり、「状況」や「出来事」といった遠位的な関わりこそがわれわれの行動を条件づけるのだという批判が提起されよう。こうした批判によれば、われわれの心的過程は刺激-反応系における行動の言明には還元しえず、身体を環境から切り離した上で、刺激を体表における神経入力へと切り詰める行動主義は、近位主義的かつ要素主義的な誤謬を犯しているということになる。

主観主義的な心理学的説明による心的なものの還元に対するネーゲル自身の批判は、理性的能力の普遍性への要求に依拠したものである。ネーゲルは心理学的説明がある種の自己認識の仕方として一定の有効性を持つことを認める。しかし、この心理学的な外的説明が「無限定的かつ普遍的な妥当性を有する理性的推論に基礎づけられていると思われるわれわれ固有の判断領域」7にまで拡張されるならば、それはある限界に突き当たらざるをえない。例えば、構築主義的な外的説明によってわれわれの論理、数学、推論の各能力が歴史的に偶然的であり、文化的に局所的であるような慣習の所産とみなされる場合を仮定しよう。その場合、こうした主観主義的主張は意図としては客観的であろうとするのに対し、主張の内容それ自体が理性的能力の客観的妥当性を掘り崩すものであるため、その主張は自身の客観性を擁護する基盤を失うことになる。

一般に、相対主義的な主張は自己論駁的である。「われわれは理性の要求に対する批判を定式化し擁護するために他のいくつかの点で理性を用いることなしに、そうした批判を行うことはできない」8。主観主義的な主張を行うためには、普遍的妥当性を有すると目される理性的能力を採用しなければならないのであり、理性を批判するためには当の理性をもちいなければならないのである。したがって「主観性の概念はつねに客観的な枠組みを要求する」9のである。どのような主張を行うに際しても、理性はつねに前提として働き出しているのであり、こうした理性の外部に抜け出て理性を批判することは不可能なのである。ネーゲルの主観主義的な主張の占有に対する批判の要諦は、こうした理性の自己言及的な回避不可能性に存すると言えよう。

3.世界の多次元性


 ネーゲルは自身のこうした理性の捉え方が、デカルトのそれと非常に近しいものであると述べる10。ネーゲルは、方法的懐疑によって導出されたコギトの明証性は最も重要な哲学的論点ではなく、「むしろ論点は、われわれがその外側に出ることができない思考があるということをデカルトが明らかにしたこと」11にあると指摘する。そうしたタイプの思考は、われわれがそれを持つことを避けえないものであり、外側から考察することが端的に不可能なものである。そうした思考こそがわれわれの客観性の枠組みを構成するのであり、それには少なくとも論理や数学に関する基本的な理性的諸能力が含まれており、実践的推論や美的判断に関する能力も含まれているかもしれない。

したがって、一度こうした回避不可能な思考が見出されるならば、例えば論理学を人類学によって置き換えたり、数学を社会学や生物学によって置き換えたりといった相対主義的な還元主義の試みは限界をもたざるをえないことになる。論理学の客観的妥当性は論理学の内部における第一階の理性的推論の使用によってのみ争うことができるのであり、論理学に対する外的でメタ的な観点からの完全な還元は不可能なのである。ネーゲルはこうした学問内部における第一階の理性的使用の優先性を他の諸学問にも認めており、その限りでは先に言及した世界の多次元性をここでも承認するかたちになっている。

 しかしながら、われわれの客観的な枠組みを構成する回避不可能な思考を認めることと、各学問領域における固有な方法論なり思考様式なりの第一階の適用の優先性を認めることの間には、なお論理的な飛躍が存在するように思われる。ネーゲルが指摘するように、普遍妥当性をもつ思考のカテゴリーに論理的・数学的・実践的な推論が含まれることを認めるとしても、それが含意するのは論理学・数学・倫理学(あるいは数学を用いる自然科学の一部)の還元不可能性であり、他の諸学問――例えば歴史学・人類学・心理学――の還元不可能性はそこには含意されていないのではないか。それを確証するためには、それぞれの学問における基礎的な思考様式を分析し、それがわれわれの客観的な理性のカテゴリーに含まれることが示されなければならないだろう。ネーゲルは理性の内容に関して、それが非常に豊かなものである可能性を指摘する一方で、それが論理その他の限定的な諸原理に留まる可能性も認めている12。いずれにせよ、その内容は将来の科学哲学的精査に委ねられねばならない。

本節の最後に、推論能力に関する簡単な指摘をしておきたい。現在推論の種類として一般に認められているのは演繹的推論、帰納的推論、さらにはパースの手からなるアブダクションの三つである。演繹的推論は論理的な含意関係によって形式的に運用されるが、帰納的推論は狭義の論理によっては導出しえず、統計的手法の導入を必要とする。さらにアブダクションにおいては、想像力の使用を伴う仮説の導入が必要とされるのであり、論理学的な知見のみでは処理しきれない。詳細は省かざるをえないが、私は後者二つの推論形式はわれわれの「レトリカルな」認知能力の導入を必要とすると考えている。それらの認知能力についての探査は、ネーゲルも望むように理性的推論の豊かさを発掘する一助となるだろう。



4.結語


 ネーゲルはデカルト的方法によって理性的推論の回避不可能性を見出し、それを軸としながら各学問間の還元不可能性を論証し、普遍主義的な立場を擁護する議論を展開した。なお理性の内実が留保されたままであるとはいえ、ネーゲルが論証したような形における理性使用の普遍妥当性は魅力的なものに映る。しかしながら、本論では論及しえなかったクワインとの関係や、ネーゲルの鍵概念である「収斂 convergence 」の分析など、残された課題は多い。デカルト的な基礎づけ主義とクワイン的なホーリズムが、ネーゲルが述べているように表面的な対立に収まるものなのか13、そして科学の通常の営みが果たしてデカルト主義的なものなのか。また、「収斂」という概念はどのようにして「合意」を超えた普遍妥当性へと到達できるのか。

知的平衡感覚を保つことが困難な今日において、直観を手放さず独力で思考を紡ぎ出すその誠実さには範を仰ぐべきものが多い。その不可能性を刻印されるまで、哲学が絶対の探求であり続けるべきならば、ネーゲルはそうした哲学の希有な具体であるだろう。





(1).『コウモリであるとはどのようなことか』、ネーゲル著、永井均訳、草書房、1989p.306

(2).同上、pp.320321

(3).同上、p.320

(4).同上、p.327

(5).同上、p321

(6).同上、p.328

(7)Nagel 2001,p13

(8)Ibid.,p15

(9)Ibid.,p16

(10)Ibid.,p18

(11)Ibid.,p19

(12)Ibid.,p17

(13)Ibid.,p22