科学技術と合理性 | autochromatics differencia

科学技術と合理性


 前世紀を振り返ってみると、政治・経済・文化のあらゆる領域に渡って、科学技術の展開がそれらの在り方を大きく変容させ、規定し続けてきたと言える。世紀の前半に行なわれた二度の世界大戦は高度な軍事技術に基づく大量殺傷兵器の使用によって、それまでにない大規模な惨禍をもたらしたし、戦後国際政治の構造と動向は核兵器という未曾有の技術的産物によって根本的に条件付けられた。また、アメリカ型の文明社会が他の諸国に波及し、そのヘゲモニーを拡大し続けることが出来たのも、通信技術から重化学工業、電子産業、遺伝子工学、宇宙開発に至る様々な分野で急速な技術革新を推進し、経済発展を成し遂げたからである。こうした科学技術の革新は様々な家庭用の機械製品として導入され、我々の生活世界の様相を一変させた。近年では、情報技術や医療技術の高度化により、新たな倫理的問題領域も形成されてきている。インターネットの一般化や電子空間上におけるデータベースの構築は、権力形態の変容をもたらし、「超パノプティコン」(マーク・ポスター)と呼ぶべき事態を引き起こしているし、延命治療や遺伝子治療は、我々の生死の意味さえも変化させている。さらには地球規模での環境破壊やエネルギー資源の枯渇、人口の爆発的増加といった人類の生存条件に関する問題も、フォーディズムに始まる大量生産・大量消費・大量廃棄の構造など、工業化し大規模化する技術の在り方に深く根差している。いまや我々の生活世界は技術によってその体制化のひとつの次元を成し遂げているといっても過言ではないだろう。それと同時に、様々な局面において看取される生活世界の「危機」も同じ技術によってもたらされていることも否定し得ない。こうした現在、技術批判の探求は火急の事であろう。

 しかしながら、技術哲学・技術倫理の現状に対しては未だしの感が否めない。本稿では、技術の存在性格を巡る問題を考察し、技術批判の可能性について論じてゆきたい。



技術の道具説と技術決定論

 技術論の中心課題は「技術とは何か?」という問いの解明である。この課題を巡って、しばしば提出される典型的な説に「技術の道具説」と「技術決定論」の二つがある。これらはそれぞれ技術に関する目的-手段という二項的な構図を前提とし、技術をそれらの一方へと位置付けることによって成立する。ところが、技術の在り方はそのような二項対立的な地平には収まらない根本的に「両義的な」存在性格を有している(1)。ここではまず「道具説」と「決定論」の両者を検討してゆくことにする。

 技術を一定の目的を実現するための手段の次元に属するものだとする見方は、アリストテレスから現在の社会政策におけるシステムの効率的運用設計に至る様々な理論と実践の中心的な前提をかたちづくっている。こうした見方では、技術は特定の目的を実現するための道具のような事柄であるとされてきた。これを「技術の道具説」と呼ぶ。

 道具説では、技術は様々な目的とは独立に規定しうる手段の領域に属する事柄であるとされ、その帰結として、それが実現する目的の価値内容にはコミットしないという技術の「価値中立説」が導かれることになる。

 例えば、人を殺傷するためにはナイフを用いることも拳銃を用いることも出来るが、それらのどちらがより「優れているか」という問いは、その目的が受ける価値評価とは独立の問題である。また、ナイフは殺人にもリンゴの皮剥きにも使用することができるが、この場合も、技術自身が受ける評価はその使用目的の持つ価値評価とは独立である。このように、技術はその目的とは独立であり、目的価値に対して中立的な手段の領域に属するように見える。道具説は、技術を制御可能なものとみなし、技術の在り方を人間や社会の在り方に適応させようという方向を強調することによって、技術は人間が使用しやすい「合理的な」ものであるべきだとする。道具説においては、「合理性」が技術の価値を審判するのである。

 しかしながら、産業革命以降の歴史はこうした楽観的な技術観を覆すような大規模な技術システムを構築してきた。二度の世界大戦の後、例えばエリュールは「技術は人間生活を支配し、秩序と効率という名のもとに自然の生活と人間の自由を犠牲にしてきた」(2)と指摘している。人間が技術を支配するのではなく、技術が人間と社会を支配するというこうした主張は「技術決定論」と呼ばれる。この説においては、人間の必要性や目的が考慮されないままに、技術はただそれ自身のために追求されると主張される。いまや技術の目的は技術それ自身が決定する。技術は手段の領域から解放され、自律化し、それ自身の論理に従って行為の「合理的」な在り方を規定し、社会をこの「合理性」や「効率性」の下に隷属させながら展開するのである。

 これらの「道具説」と「決定論」は一見したところ、相対立するものに思える。一方は技術を、我々が自由に制御し、使用することの可能なものと見なし、他方は我々の制御をまったく受け付けない自律的なものと見なす。しかしながら、どちらも既存の技術を前提とし、それを物象化して捉えているという点では共通している。こうした前提が多くの技術論において、議論の在り方に一定の制約を課しているのである。こうした物象化を退けるために、まずは技術が出来上がってくるまでの「生成の論理」が問われねばならない。



技術の両義性

 「道具説」では、技術は様々な目的とは独立な手段の領域に属するとされ、目的の次元は人間や社会が自由に決定すべき事柄とされる。それ故、人間と社会が技術の在り方をも決定するのである。それに対して、「決定論」では、目的の次元は技術によって占有され、目的-手段連関そのものが技術の支配的領分となる。社会の在り方は技術によって決定され、社会は技術に下属する。この決定論的な見方がさらに先鋭化されれば、社会が技術を手段化するのではなく、技術的システムがその目的を遂げるために社会を手段化するという説も導かれるだろう。「道具説」を転倒した果てに「決定論」が浮上するのである。

 しかしながら、両者は共に既に出来上がった技術の在り方を前提とし、それを目的-手段という図式の一方に物象化して割り振っているという点では共通している。既存の技術の在り方に焦点を当てている限り、目的-手段は相互に独立のものであるように思える。しかし、技術の生成の過程への遡行的な問いは、目的-手段の根源的な連関を明るみに出すのである。

 まず、目的が手段を規定するという関係様態は比較的見易いだろう。例えば、自動車の排気ガスに含まれる有毒成分を減少させるメカニズムの開発が行なわれたのは、排気ガスの過剰産出による大気汚染が問題化し、排気ガス規制の必要性が生じたからである。また、その逆の関係様態も指摘しうる。ここではこちらの関係様態の方がより重要である。例えば、電話の発明によって遠隔地間の対話の可能性が生まれ、海外の人と通話するという目的が実現可能性を持ったものとして初めて創出される。技術的手段の新たな創出は、実現しうる目的の可能性それ自体を産出し、我々の価値評価の基準を変換する。こうした意味で、技術は新たな行為の実現可能性を創出し、個々の行為ばかりではなく行為の全体的連関をも変換することにより、「社会の体制化」の在り方に深く関係する。

 このように、技術の生成の過程においては、目的と手段は密接不可分な連関をなしているのである。新たな技術革新は社会全体の体制化の在り方を変換し、この体制化の様態に応じて目的-手段の区別は切開してくるのである。技術は目的-手段という図式のどちらかにあるのではなく、むしろそれらの区別が胚胎してくるその培養地をなすと言えるだろう。技術は目的と手段の「間」にありながら、その「間」そのものを形成するのである(3)。以上のような意味で、技術は根本的に「両義的」な存在性格を有するのである。


技術と合理性

 「決定論」的主張では、機械が体現する「効率性」や「合理性」が技術を貫徹する本質的論理であると見なされることが多い。技術が行為の合理的在り方を規定するのである。一方、「道具説」では、技術的な人工物は可能な限り使いやすく、その意味で人間的なものになることを志向される。「合理性」はその道具的・人間的意味において解釈されるのである。こうしてみると、「合理性」を巡っても両者は一見対立しているように見える。しかし、「道具説」における「合理性」は、その道具的・人間的意味を介してむしろ「決定論」的主張と通底しているのではないだろうか。

 R・グレゴリ-によれば、技術的な人工物は人間の知的な営みの産物であるだけではなく、知的活動の担保ともなり、それを触発する(4)。例えば、雨露を防ぐという問題解決のために屋根を作るとする。一端こうした人工物を構築すると、次回からは同じ問題が生じても再び同じ作業をするのではなく、問題解決をその人工物に委託することが出来る。こうした人工物の役割を、彼は「潜在的知性」(potential intelligence)と呼び、人間の知性の多くがこの潜在的知性としての人工物の存在に依拠して成立するものであることを示した。こうした「潜在的知性」としての人工物は、一端創設され我々の社会的な行為連関の内に埋め込まれると、我々の行為に介在し、行為の合理的在り方を規定するようになる。原理的には屋根を用いずに雨露を防ぐという選択肢も存在するが、一端屋根が作られ、人口に膾炙すれば、それを用いないことは非-合理的で非-知性的であると見なされるのである。人工物が使い易いものとして作られ、その存在が自明化されればされるほど、このような圧力は増大の方向を辿るのである。こうして、「潜在的知性」という概念を通してみると、「道具説」的な「合理性」の在り方は、それが追求されればされるほど人間の制御を離れ、その「決定論」的意味へと近接してゆくことになる。

 ではしかし、こうした技術的「合理性」は一義的・普遍的なものであろうか。もしそうだとすれば、技術の展開を批判する基準はこの合理性をおいて他には存在しなくなり、技術に対する倫理的判断の余地は消滅する。歴史的な事例を見ると、このような見方を反証する例が見出される(5)

 例えば、産業革命期における「<子供>の誕生」(F・アリエス)がその一例である。イギリスにおける1884年の工場法の成立によって、児童と婦人の労働は規制されることになった。それ以前では、工場での未熟練労働者としての子供は貴重で安価な労働力であり、その労働を規制することは非効率的・非合理的であると見なされていた。しかし、一端工場法が制定されると、結果として工場労働の集約化がもたらされ、子供は社会的学習者として再定義されるようになった。彼らはより高度な能力を持った労働力の予備軍を形成し、技術デザインもこのような条件に適合するものへと再編成された。そして、今日では子供を労働力として駆り出すことを効率的で合理的であるとは誰も考えなくなっている。

 この例は、効率性という概念が実質的価値と無関係に規定しうるものではなく、むしろ一定の社会的な「価値の地平」を前提として初めて機能するものであることを示している。社会の在り方が変換し、価値の地平が変動すると、それに応じて技術的合理性の概念自体も変化するのである。この例では技術的合理性とは何かが、工場法の制定という政治的討議を通して変更されたのである。従って、技術的合理性は、その概念を技術的要因のみによって決定されるのではなく、社会的・政治的要因によっても決定されているのである。

 上述の技術と社会的体制化の関係を含め、こうした技術の在り方を考慮するならば、技術は社会的文脈と独立な事柄ではないということが確認できよう。技術の合理性とは、技術的要因と社会的要因を媒介し、それらの相互交渉を通してそれらに妥協をもたらす働きであり、根本的に「政治的な」論理であると言える。ここでも、技術の「両義性」を確認することが出来よう。


技術の政治性

 こうして、「技術の政治性」という存在性格が確認された。次に、L・ウィナーの議論を考察することにより、技術の政治性について考察を深めることにする。

 ウィナーは、「自然に対する優越性や経済的利益を手に入れるという技術の第一の結果よりも、そうした技術革新によってもたらされる第二の意図せざる結果や影響――それは広範な社会的・文化的・政治的・環境的な効果をもたらす――の方がしばしば遥かに大きな重要性を持つ」と述べ、技術がその形成に寄与する「生活形式」に注意を促している(6)

例えば、産業革命においては、織物の製造、石炭の精製、鉄道の開設などの技術革新によってもたらされた産業的優越性と経済的利益よりも、まったく新たな種類の社会――産業社会――が産み出されたことの方がより重要である。さらには、労働効率と生産性を上昇させるために導入された労働環境のオートメーション化による副産物としてもたらされた監視システムが、労働者をパノプティコン的な監視体制下に置き、人々の社会的なコミュニケーション能力を減退させているとも主張している。

こうした産業化による副次的影響は、効率性・生産性・グローバルな競合性を追及する技術システムの革新が、「技術封建制」と呼ぶべき事態へと退歩しているという主張へと我々を導くことになる。こうした抑圧的な統合機能を採用するのではなく、自由で公正な社会の在り方を模索する試みとして、ウィナーは「技術革新のプロセスを民主化する方法を育成するという道」を選ぶべきであると主張する。

 その具体的な取り組みのひとつとして「コンセンサス会議」を挙げることが出来る。これはアメリカで開発されたものだが、日本では公害問題・環境問題の出現などを背景として、科学技術によって多大な恩恵を蒙ると共に、それによって大きな危険にさらされていることを認識し始めた市民から、科学技術に関する政策決定などが専門家中心に行なわれていることに疑問が投じられるようになり、科学技術に関わる政策討議の場に一般市民が関わる可能性のひとつとして注目されるようになった。コンセンサス会議は、専門家と一般市民が専門的知識を共有し合い、討議を重ね、政策決定の場面における合意形成を目指すものである。技術は専門家が想定するような直接的影響だけではなく、それよりも重大な副次的影響をもたらし、我々の「生活形式」を大きく変換する。一般市民の視点を技術革新のプロセスに内在化することは、こうした副次的影響を可能な限り顕在化しようとする試行のひとつとして評価できる。問題点は多々あるようだが、こうした試みは技術革新のプロセスにおける「公共性」の創出に寄与するものとして注目すべき事例だろう。


結語

 技術の「両義性」という存在性格の確認によって、我々は、技術が目的とは切り離された手段の領域に属するという「道具説」と、技術がそれ自身によって目的を決定するという「決定論」を共に退けた。技術革新のプロセスを民主化することによって、技術の政治性を自覚し、技術それ自身に「目的内在化」の機能を付与し、目的それ自体を批判の対象とすることができるようになる。もちろん、技術がその目的やそれが与える広範な影響をどれほど可視化しうるかは問われなければならない。しかしながら、現代において技術について考える上で、技術と社会、技術と政治が取り結ぶ密接不可分な連関がどのようにあり、かつ、どのようにあるべきかを問うことは不可避の課題であろう。本論では技術と科学、科学技術と自然、技術と知覚といった主題に対して考察を加えることは紙幅の許すところではなかったが、いずれも重要な主題である。また、より具体的な技術の在り方に即してそれらの問題を考察する必要があろう。今後の課題としたい。




(1) 「技術の両義性」に関する議論は村田純一の論述に拠る。参考文献1.2.3.を参照。

(2) 参考文献1P.264

(3) 村田は「技術は目的と手段の「間」にある」と述べているが、技術の生成の論理を考慮するならば、より踏み込んだこうした表現が適切だろう。

(4) 参考文献2.

(5) 参考文献1.P.23

(6) 参考文献4.


参考文献

1.『岩波講座 現代思想13 テクノロジーの思想』 新田義弘他編 岩波書店 1994

2.『技術と倫理 ―技術の本性と解釈の柔軟性―』 村田純一著

  http://www.fine.lett.hiroshima-u.ac.jp/fine2001/murata_j.html

3.『技術と生活世界』 村田純一著

  http://www.kclc.or.jp/humboldt/murataj.htm

4.『Artifacts/Ideas and Political Culture』 Langdon Winner, Whole Earth Review, No.73(Winter 1991), pp.18-24.

5.『Luddism as Epistemology』 Longdon winner, From Autonomous Technology: Technics-out-of-Control as a Theme in Political Thought, Cambridge, MA: The MIT Press, 1977, pp.325-35,372-3,abridged.