実体論の擁護 | autochromatics differencia

実体論の擁護


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 西洋形而上学がその長い歴史のなかで問うてきた「実体」の思想と、仏教諸派、とりわけ中観派の開祖とされる龍樹によって論理的に先鋭な仕方で説かれたとされる「空」の思想とは、互いの間でどのような関係を取り結ぶものなのだろうか。両者は整合するのだろうか、あるいは不整合をきたすものとしてどちらか一方が退けられねばならないのか。この問いを問うに値する実質的なものとするためには、まず実体と空の両者を――紙幅ならびに手持ちの能力の許す限りにおいて――明晰化しなければならない。



1.実体の基準


いかなるものを実体として採用するにせよ、そこには実体が充足するべきとされる共通の基準が貫通している。それは自立性、不変性、単一性である。第一に、実体は他に依存せずに存在する自立的なものでなければならない。ある存在者が依存的であるならば、その存在者はそれが依存している他の存在者が成立して初めてそれ自体として成立可能となるのであり、したがって他の存在者の方が存在論的に先行することになる。それゆえ、実体は依存的ではなく自立的でなければならない。第二に、実体は変化しないもの、あるいは変化を通じて同一性を保持するものでなければならない。ある存在者に対して、「その存在者が変化する」という言明を有意味に主張しうるとすれば、そこには変化を通じて不変なままに留まるものがその根底に同一的なものとして存在しているのでなければならない。なぜなら、変化は必ず「何ものか」の変化として語られるのであり、その「何ものか」ですら変化を被るのであれば、もはや変化という言葉は意味をなさないからである。それゆえ、実体は同一性を保持する不変的なものでなければならない。第三に、実体はその部分をなす諸実体の複合であってはならず、それ自体において単一なものでなければならない。もしある実体が複合的なものであれば、その構成要素である諸実体こそが真に実体的なものであることになる。それゆえ、実体は単一性をもたなければならない。これら三つの基準を満たして初めて実体は実体たりえるのであり、もしこれらのうちの一つ、あるいは二つを欠いたものを実体として認めるのであれば、その主張はそれ相応の弁明を行わなければならないのである。無論、これらの基準に関する上述の記述は最低限の形式的なものであり、具体的に実体を論じるときにはさらに詳細な規定が必要となる。


2.実体否定としての空論


空の思想はこれら三つの基準を――たとえそのうちのひとつであろうと――満たすことのできる存在者が存在することを否定することによって、実体論に対立する論理を展開していると一般には考えられている[i] 。空とは「すべてのものは移り変わる無常のものである」という教えである。空の思想をこうした素朴な無常観として解釈するならば、先の三つの基準を否定するその論理には以下のような諸々の難点がつきまとわざるをえない。

(1)自立性の否定。仏教ではあらゆるものは縁起――様々な原因や条件――によって成立しているとされる。あらゆるものは縁起の連鎖のなかにあり、他の様々な縁から生じたものである。それゆえ、すべてのものは依存的であり自立性をもたない。しかし、ここには縁起の始源を無限後退に陥らずにいかにして理解するかという問題が残る。また、より特殊的には、行為を開始する意志の自由という心的因果の問題も同様に残されたままである。仏教では始源を問い求める思惟の困難さゆえに、思惟そのものを離れ一切の分別を捨て去ることを説くようである。「悩み苦しみの因由を尋ね始めたら何世、何百世のさきまで辿っても始源は求められない。心とは、無始爾来の界なのだから。悩み苦しみを解釈し始めたら、何百、何千の煩悩を数えあげ、その複合を尽くしても、当の悩み苦しみが解消するわけではない。悩み苦しみは概念や思惟で解釈できないものなのである」[ii] 。これは宗教的態度としては至当なのかもしれない。しかし、学問的態度としては問うべき問いを棚上げしており不誠実という他はないであろう。このように、縁起思想による自立性の否定は解消すべき問いを放棄しており不徹底である。

(2)不変性の否定。空の思想は「すべてのものは移り変わる」という教えであり、これは一見して直接的に不変性を否定するものである。しかし、先にも見たように、変化を有意味に語るためには変化の前後を通じて変化しない同一的なものが存在しなければならない。「すべてのもの」が川の流れのように時々刻々と変化するのであれば、もはや変化について有意味に語ることはできないのである。一般に、事物が変容するということは、その事物がもつある属性が失われ別の属性に置換されるということである。この場合、諸々の属性が帰属するところの基体が同一的なものとして実体的に把握されている。基体の連続的な同一性を欠いては属性変化を有意味に語ることはできないのである。しかし、この変容が極端なものとなり、「基体的変化」を引き起こすとみなされるような場合はどうか。空の思想が「すべてのものは移り変わる」というとき、「すべて」という普遍量化詞は文字通りに解されるべきであり、その変項の走る領域には基体そのものも含まれているはずである。こうした例を現実に見出すのは困難であるが、ギリシア神話に例をとると、「ペーネイオス河の神の娘ダプネーは、アポロンに恋され追いかけられて、まさに捕らえられようとして、父に助けを求め、父は彼女を月桂樹に変じたという」[iii] 。フィクションに例をとることの適切性はひとまず措くとして、ここでは娘から月桂樹への変化として、単なる属性変化に留まらない基体そのものの変化が生じている。しかし、この場合でも、その形態的相貌や内部組成を変じつつも、時空的な位置付けの連続的な同一性は保たれているのであり、あらゆる同一性を絶した変化は生じていない。あらゆる同一性を絶した変化とは語義矛盾以外の何ものでもない。また、翻って考えてみれば、「基体的変化」が差しあたってフィクションのなかにしか見出せないということ自体、われわれの現実世界が多少なりとも基体の同一性を保持するような構成を有していることを示唆するものである。さらには、空の思想が「永遠に移り変わることのない実体はない」とか「生成消滅することのない実体はない」という永遠的な恒常性の否定を伴った主張であるとするならば、こうした主張は多くの実体論と整合するものであり、それらの実体論を否定するものではないだろう。なぜなら、歴史上唱えられてきた実体論の多くはその実体が永続することや不生不滅であることを主張してはいないからである。実体の永遠性を否定する主張がそのまま実体論全体の否定を含意するわけではないのである。また、仏教固有の輪廻の思想は、生死の反復を通じた魂の永遠的な同一性を前提しなければ有意味に語ることはできないであろう。したがって、無常観と輪廻思想を文字通りに解するならば、それらは仏教の内部において相矛盾し衝突するのである。以上のように、無常観による不変性の否定は、変化そのものの否定を意味する自己論駁的な主張であるか、あるいは、実体論と整合する内容空疎な主張であるかいずれかであり、仏教そのものの内部にも自己矛盾を生じさせるような受け入れがたいものである。

(3)単一性の否定。空の思想によれば、すべての延長的存在はたくさんの部分が寄り集まってできた複合体であり、単一の全体性を備えたものではない[iv] 。複合を構成する部分の単位をどのように考えるかについては、原子を最小単位としてその複合を考える原子論的な立場を採らずとも、ある任意の存在者に対してその全体をより小さな諸部分へ分割することが常に可能であるとする分割可能性による規定を採ることも可能であろう。だとすれば、たとえば「私の身体が単一であるかどうかといえば、手を動かすと私の身体は動いている手の部分と動かないでいる身体の部分とに分かれ、これも単一ではない」[v] ということになる。こうして、「大きさや広がりをもったものはすべて複合体である」[vi] とされる。しかし、こうした要素還元主義的な論理によって、諸事物の全体性、たとえば身体のゲシュタルト的統一を再構成することが可能であろうか。身体の諸部分の機能を複合しても、それらを統一する有機体としての身体がそこから生じるわけではない。有機体としての単一性は全体論的な性格を備えたものであり、その統一性を分割された諸部分のつぎはぎによって与えることはできない相談である。ある統一的な存在者のもつ分割可能性は、その存在者の単一性を構成原理として前提することによって初めて生じうるのであり、この場合の説明順序は全体から部分へと進み、その逆ではない。このように、仏教思想が単一性を否定する際のその論拠が要素還元主義的なものであるとすれば、それは有機体などのシステムがもつ統一性を説明不可能なものとしてしまう。それゆえ、空の思想による単一性の否定についても、それは実体論を論駁するものではないのである。

 以上のように、何らかの存在者を実体として認定する際の基準とされる自立性、不変性、単一性のいずれに対しても、素朴な無常観としての空の思想はそれらを否定するための論拠を欠き、したがって実体論を全面否定する対抗策たりえてはいないのである。



3.実体論の擁護


 しかし、龍樹が洗練させた空の思想は、こうした単なる実体論の否定としての空論に留まるものではないとされる(注1参照)。それはむしろ、実体を肯定する立場と否定する立場の双方がそれぞれ矛盾するものであり、したがって実体と空の双方が論理的に不成立となる他はないということこそを説くものであるとされるのである。いいかえれば、肯定命題に対する否定命題という対立次元を超えて、両者を包摂するメタ否定という次元に立つのが龍樹本来の思想なのである。龍樹は縁起や運動、五蘊、苦、自性と他性、輪廻と涅槃、我、時間などおよそありとあらゆる一切の諸範疇が、その肯定も否定もともに矛盾を孕むものであり不成立とならざるをえないということを説く。たとえば、縁起は「縁」と「果」という両項の関係によって構成されているが、龍樹によれば、ここには基本的に二つの矛盾が含まれている。すなわち、縁起関係を構成する両項の間にある相互依存にふくまれる循環的矛盾と、両項の間の同一性と別異性との矛盾である。この二つの矛盾ゆえに、縁起を肯定する立場も否定する立場もともに矛盾に陥るとされる。この点に対するさらなる論証を構築し、それを論駁することも興味深い重要な問題ではあるが、それは本論の範囲を越える課題である。ここでは空論それ自体を別様に解釈する可能性が存在することを指摘するに留め、前節での「実体否定としての空」に対する批判を継いで、実体論を擁護する論証を行いたい。

西洋形而上学では伝統的に様々な存在者が実体の候補として考えられてきた。たとえば原子、個体、絶対者、精神、延長、あるいは有機体などである。実体として原子を採るならば、諸々の存在者はそうした要素的実体としての原子の複合体として存在することになり、存在者を構成する諸原子の組成が変化しようとも原子そのものは変化しないということになる。また、デカルトは延長とともに精神を実体とし、思惟の内容は様々に変化しうるが、精神そのものは一人称的な思考力によって単一性を有するとする。

これらの実体論それぞれに言及する余裕はないが、本論の残りでは有機体(ライプニッツ)あるいは身体(メルロ=ポンティ)を実体として解釈する可能性を考察し、その解釈が自立性、不変性、単一性という三つの基準をどのように充足しうるかを示すことにする。

有機体としての身体を実体として捉えることは、そこに知覚内容や行為記述を理解するための単位として単一性を導入することである。マクダウェルによれば、動物としての有機体は環境へと開かれた意味論的機関であり、その内部機関――感覚器官(入力)から神経系を経て大脳を通過し運動器官(出力)へ至る一連の内的システム――が統語論的機関であることと対照をなす[vii] 。経験や行為の内容を理解するためには、われわれは意味論的機関としての有機体のレベルにこそ直接性を認めなければならない。これに対し、統語論的機関としての内的機関に内容を帰属させることは間接的なものに過ぎない。こうしたレベル間の差異をわきまえず、「有機体のレベルにおける内容帰属」を「その内的機関における内容帰属」から構成的に説明することは、有機体の適応能力を説明不可能にし、混乱を招くものでしかない。したがって、実体の基準のひとつである単一性は、有機体のレベルに認められる意味論的機関としての統一性を原理とするものなのである。また、上述の意味論と統語論のレベル間の差異を構成的に理解してはならないという戒めは、自立性という基準に対しても新たな解釈を与えるものである。生命の構成単位としての有機体が生じるのは確かに他の外的存在者からであり、かつ環境への依存関係なしに有機体はその統一性を保持しえないのであるから、有機体は絶対的な自立性を有するものではない。しかし、有機体はその内部機関の諸々の機能を統一する原理でもあり、そうした諸機能の適応的な遂行は有機体という全体論的なレベルに依存することで初めて可能となる。したがって、有機体は、絶対的自立性とは異なる、内的機関に対する相対的自立性を有すると言えよう。もし、このように弱められた意味での自立性が認められるならば、有機体は実体としてのもうひとつの基準を充足することになる。さらに、最後に残された基準である不変性はどうであろうか。無論、有機体を構成する諸元素は不断に入れ替わっており、素材的には有機体に不変性を認めることはできない。しかし、有機体全体に生物学的な基準によって人格的同一性を与えうると見なす論者もおり、有機体としての連続性に不変性の基準を見出すことは有望な試みであると思われる。この点に関しては今後の課題とせねばならない。



4.結語


以上見てきたように、伝統的に解釈されてきた限りでの空の思想は様々な難点を孕んだ素朴なものであり、実体論の否定に至るものではない。さらに、実体論を擁護するために有機体ないしは身体を実体として解釈することは、実体の三基準を独自のヴァリエーションにおいて充足しうる有望なものである。無論、上の論証は空論に関しても実体論に関しても粗雑さの域を出ないものであり、さらなる精査が要求されよう。













[i] 「一般には」という限定を付したのは、龍樹自身の論理はこうした単純な否定に終始するものではないと考えられるからであるが、詳細は他論に譲らざるをえない。矢島(1983)によれば、龍樹本来の空の思想は「実体否定としての空」に留まるものではなく、実体と空の対立次元そのものを否定するメタ否定を通じて一切の無条件的な肯定へと至る「一切肯定としての空」を説くものである。しかしながら、こうした二種の空を論じるのは私の力の及ぶところではないため、本論では前者の「実体否定としての空」を主題的に論ずるに留める。

[ii] 梶山 1983p.10

[iii] 菅野 2003p.320

[iv] 非延長的存在であるとされる「ことば」については、それは物質的でないから分割できず、単一な存在であると考えられている。しかし、(延長的、非延長的という二元論の是非は別としても)その場合のことばの地位は否定的なニュアンスを込めて言及されている。たとえば、ことばは、概念として観念的世界へと位置付けられた上で、その単一性は現世とは隔絶した観念の次元に存在するに過ぎないという風に語られている。ことばは概念であり、仏教は概念からの離脱を説くのである。

[v] 梶山 1983p.33

[vi] ibid.

[vii] McDowell 1998, pp.341-358



参考文献


梶山雄一『空の思想 仏教における言葉と沈黙』人文書院、1983

矢島羊吉『空の哲学』NHKブックス、1983

菅野盾樹『新修辞学 反〈哲学的〉考察』世織書房、2003

McDowell, J. 1998, ”The Content of Perceptual Experience,” in Mind, Value, and Reality; Harvard University Press