創造的進化のエンボディメント | autochromatics differencia

創造的進化のエンボディメント

大野一雄1



 もはや生きた伝説ともいえる舞踏家――大野一雄。彼の公演やインタビュー、稽古風景などを収録したビデオ作品『美と力』をようやく借りて観ることが出来た。彼の切り開いた境地は、もはや暗黒舞踏の域を越え、形而上学的に言えば「生命の運動そのものが彼の身体をして舞踏へと向かわせている」とでも言うべき異形の空間を創出している。


彼の極限まで削ぎ落とされた骨身の精髄には、百鬼夜行状態を呈する血肉化されたイマジネーションの群れとして、天地開闢以来の進化史が織り成す兆重する分岐的運動が凝集されている。それらの分岐的運動は未来へとひしめき合いつつ方向性をさぐっている。そのイマジネーションを彼の舞踏が切っ先として担っているのである。彼の舞踏の表現は、原初的な有機体から連綿と続き、彼がそれであるところの人間という或る生命形態へと至る、その生命の歴史への際限なき問いかけなのである。彼の指先の動きを見よ。それは雄弁に満ちた沈黙のなかで、生命を追い求め、まさぐり、こねまわし、形態学的多様の空間を先へ先へと開いてゆく。


彼へのインタビューのなかに、以下のような印象的な逸話が語られている。ある日、彼は死の間際を迎え憔悴した母親の病床を訪れる。すると、母親は汗をびっしょりと掻き、寝具はその下の畳まで濡れ、臥床からは朦々と湯気が噴き出している。そして、母親は、「私の身体のなかを鰈(カレイ)が泳いでいる」という遺言を残してこの世を去っていく。彼はそれから数年後、ふとこの遺言の意味に気付く。「天地創造の初めに単細胞が出来た。最初は真ん丸い何ものかであったその鰈の命のようなものが、ある時に、ずうっと砂のなかに入り込んでゆく。そして、平らになるまで砂のなかで何万年も耐えに耐える。さらに、その砂のなかから覗く両目が頭の上に出るまで何万年も耐えに耐える。最後に、耐えに絶えた果てに、いざ泳ぎ出すとき、大地が持ち上がり、砂礫が一気に噴き上がる。これは母親の最期に立ち上った湯気の光景だ。その湯気を透かしてみると、ゆらゆら泳ぐ鰈が見える。踊りもこれと同じで、長い年月の間、何万年も耐えに耐えて、海のなかを、あるいは母親のお腹のなかを泳ぎ、両目が魂の所在を証明するように出てくるまで、ずっと耐え抜かねばならない。そして、思い切って、すべての力を結集して、踊りだすのだ」。この幻想的なイマジネーションは「鰈のダンス」という作品へ結実する。「鰈のダンスのなかには人生のすべてがある」。彼の骨身へと「生命の動き」としてつづら折りにされたこうした無数のイマジネーションが、老齢を迎えた今なお彼の身体を舞踏へと駆り立て続けている。


大野一雄2